それがさ……」
「では、一緒にここへでも連れて来たのか」
「それがさ……」
 いやに彼等二人はニヤニヤして、歯切れのいい返事をしない。
 兵馬は、机に近い程よきところに席を占めて、
「そうして、拙者がここへ来たことを、君たちは、知ってたずねて来ましたか、或いは偶然にここへやって来たのですか」
「雪に足あとがあるものだから、こいつ狐の足跡ではない、多分、君の足あとだろうと思うから、それを伝って、とうとうこれまで入りこんだというわけさ」
 とはいえ、この辺こそ雪だが、松本あたりはまだ雪ではあるまい。
 しかし、いずれにしてもこの二人の来合わせたのは、偶然ではなく、兵馬の足あとをかぎつけて来たものであることは、疑いがないらしい。
 とすれば、あの女はどうしたのだ。
 中房からの道、兵馬のあとに追いすがって来たあの女はどうしたのだ。もと浅間の芸妓《げいしゃ》であったという女。
 兵馬がもてあましたところを、二人が引受けたはいいが、兵馬は、手放してかえって持扱っている。
 ここへ来たのも一つは、その行方《ゆくえ》が気になってたまらないからだ。
 しかし、詰問してみると、二人はニヤニヤと笑うばかりだ。
 いったい、この連中に正面から詰問してかかれば、かえって、いよいよ事を扱いにくいものにする。現在、連れて来てこの隣室へ置いたからとて、二人は江戸の八丁堀へ置いて来たようなことを言い、江戸の八丁堀へ届けて来ても、この隣室へ置いてあるようなことを言いたがるのが、厄介者の常だ。それを知っているから、兵馬は、手強く詰問しても駄目だと思っていると、案外先方が砕けて来て、
「宇津木君、実はねえ君、実はねえ、君に申しわけがないんだよ、我々両人、あんな口幅ったいことを言って、あの女を引受けてからさ、なあに御心配はないさ、我々だって、見込んで頼まれれば、猫と一緒に鰹節の番人もする――後生大事に、あの女を連れて浅間へ送りかえす手筈であったが、あの女が、浅間へは帰りたくないようなことを言うから、それではお望み次第、京鎌倉でも、江戸大阪でも、どこへでもおともをしようじゃありませんかと、安手《やすで》に出て、そうして、まあ取敢《とりあ》えず木曾街道を塩尻まで無事に同行したと思い給え。塩尻へ入ると、さあ、すっかり大しくじり、あの女の姿を見失ってしまったのだ、上《かみ》へのぼったか下《しも》へさがったか、どこをどうしたか、女の行方《ゆくえ》がかいもく知れなくなった。血眼《ちまなこ》になって、大の男二人が騒ぎ廻るのが笑止千万、実はまか[#「まか」に傍点]れたのだ、とうからきゃつにすっかり鼻毛を読まれていたのだ。地団駄《じだんだ》ふんでも追っつかない、女と侮った――あちらが役者が一枚上だ。そのまますごすご引返してここへ来る器量の悪さ――実以て面目次第もござらぬ」
 だが、この話だって、どうだかわかったものではない。
 果して、まか[#「まか」に傍点]れて、器量悪く戻って来たものか、或いは、散々《さんざん》もみくちゃにして、突っ放して引上げたものか、保証の限りではないが、とにかく、あの女をここへ連れて来ていないことは本当らしい。
 まもなく二人は切上げて、これから湯に行くと言いました。
 湯に行ったついでに、誰か留守番の者に、我々の部屋を周旋してもらおうと言い出したのは、いつまでも、兵馬と同室にいるつもりではないらしい。
 果して二人が出て行くとまもなく、留守番の男がやって来て、御同宿のお方を、この突きあたりの二番目に致しましょうといって、そのすべての持物を運びはじめました。
 厄介払いをしたつもりで、兵馬は息をついたが、この厄介払いで、ここまで見込まれた以上は、これから以後のことが想われる。
 この二人の亡者共に、つけ廻されてはたまらないから出し抜くに限る。出し抜いたからとて、影の形における如く、離れっこはないから、絶縁を宣告するのも無益である。しかるべき時刻を見て、無断にここを出立してしまうことだ。
 その時刻は、いつがいいかな。永くここに逗留《とうりゅう》している必要は更にないのだから、明朝あたりがよかろう。それとも今晩、月夜ででもあれば、彼等を出し抜いてしまってやろう。そうして、ともかくもまた一旦松本へ帰るのだな。
 いや、待て待て、せっかくここへ来た以上は、ここで知り得るだけのことは知って置かねばならぬ。
 ちょっと一夜めぐりをして、尺八の音に驚かされて帰るだけでは、どうも冥利《みょうり》が尽きるようだ。
 とにかく、一応は、何人の人たちがこの宿にいて、それのおのおのの住所、氏名、族籍というようなものまで、一通りは当りをつけて帰らぬことには、偶然にしても、偶然を利用することが足りない。
 よし、かりに宿帳を見せてもらおう。
 それに、随時、あの炉辺閑話が開かれるらし
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