》を、夢うつつの間に竜之助が聞くのも、耳新しいことではない。
その時、またしても、不意にピグミーが襲いかかって来ました。
これより先、二つに斬られて壁にへばりついていたピグミーが、またピクピクと動きはじめたと見れば、いつのまにかそれが一つになって、壁から真一文字に飛んで、再び刀の物打のところへしっかりとかじりつき、
「ね、足音がするでしょう、いつもの足音とは違いますよ、いつもの足音は、一筋にこの部屋へ向いて忍んで来たでしょう、今度のは、あれ、ああして、一間一間をのぞいて歩いて来ますよ、この三階だけでも三十幾間かあるでしょう、それをいちいちああして、忍び忍びに様子を見ながら、だんだんこちらへ近づいて来る者がありますよ、若い人です、男ですよ、刀を差しています、どのみち、やがてここへやって来ますよ、ここへ来たら事です、さあ、御用心なさい、御用心」
小うるさい! 再び竜之助が刀を振ると、ピグミーはまたも二つに斬られて、壁へ行ってヘバリつきました。
と同時に行燈《あんどん》が消えて、室は真の闇。
七
座敷が暗くなってから暫くして、短笛の音がこの一室から起りました。
「鈴慕《れいぼ》」を吹いているのです。
この部屋の調子というものが、どうも「鈴慕」を吹くにふさわしく出来ているのか知らん。
それとも、習い性となって、手を動かせば尺八が手にさわり、尺八を取れば「鈴慕」が唇頭に上り来るのかも知れません。
とにかく、竜之助はここで「鈴慕」を吹きはじめました。
この男が、竹を鳴らすことに、どれだけの慰安と、一如《いちにょ》とを、見出しているのだかそれはわかりません。
また好んで「鈴慕」を吹くといえども、「鈴慕」そのものの曲の示すところが何物であるか、それを味わいつつ吹くのでないことも勿論《もちろん》でしょう。いわゆる本曲について、見よう見まねのたしなみは持っているというこの男が、「虚霊《きょれい》」を吹かず「虚空《こくう》」を吹かず、好んで「鈴慕」を吹きたがるところから見れば、それは何か手ざわりがよくて、虫が好《す》くといったような、共鳴するところのものがあればこそだろうと思われます。
「虚霊」は天上の音《おん》、「虚空」は空中の音、「鈴慕」に至ってはじめて人間の音であります。
行けども行けども地上の旅を行く人間の哀音、そのいずれより来《きた》って、いずれに行くやを知らず、萩のうら風ものさびしく地上を送られ行く人間が、天上の音楽を聞いて、これに合わせんとするあこがれ[#「あこがれ」に傍点]が、すなわち「鈴慕」の音色ではないか。
心は高く霊界を慕えども、足は地上を離るること能《あた》わざるそのあこがれ。耳に虚空の妙音の天上にのぼり行くを聞けども、身は片雲《へんうん》の風にさそわれて漂泊に終る人生の悲哀。無限の空間のうちに、眇《びょう》たるうつせみの一身を歩ませて、限りなき時間の波路を、今日も、昨日も、明日も、明後日も、歩み歩みて、曾無一善《ぞうむいちぜん》のわが身にかかる大能の情けの露に咽《むせ》ぶ者でなければ、「鈴慕」の曲の味わいはわかるまい。
けだし、最初の人は、霊感うちに湧いてこの曲を作り、第二の人は、曲そのものを学んでその霊感に触れ、第三の人は、曲そのもののようになりて胡盧《ころ》を描く。
知らず、竜之助はそのいずれの人?
かくて「鈴慕」の一曲を吹きすました時に、感激はないが寂寞《せきばく》はある。
不意に次の間で、
「ホホホホホ」
という女の声がしましたから、竜之助の眼は本能的に、その笑い声のした方へ向いましたが、もとより何物も見えるのではありません。
「誰だ」
とがめた時に、この一室が月光のような色に冴《さ》え返って、隔ての襖《ふすま》が紗《しゃ》のように透きとおりました。
その透きとおる襖をとおして彼方《かなた》の室を見ると(この時は竜之助のみがそれを見るのです)そこに丸髷《まるまげ》に小紋を着た女房が一人、正面を向いて頻《しき》りに着物をたたんでいます。
尺八を机の上に置いた竜之助は、
「誰だ、そこにいるのは」
重ねて言葉をかけてみますと、
「ホホホホホ」
と、淋しく、愛嬌のある笑みを見せて、こちらは少しも向かずに、以前の通りの形で、しきりに着物をたたみながら、
「たいそうむずかしい曲を、おやりなさいますね」
「なに」
「むずかしくてわかりません、もう少し砕けたのをお聞かせ下さいな」
「お前に聞かせるつもりで、吹いているのではない」
「それでも同じことなら、もう少しやさしい[#「やさしい」に傍点]のを吹いて下さいませんか、そら、いつかのあのしおの山[#「しおの山」に傍点]――あんなのを吹いてお聞かせ下さいましな」
「お前は誰だ、妙なことをいう女だな」
「ホホホ、お見忘れでご
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