って、いずれに行くやを知らず、萩のうら風ものさびしく地上を送られ行く人間が、天上の音楽を聞いて、これに合わせんとするあこがれ[#「あこがれ」に傍点]が、すなわち「鈴慕」の音色ではないか。
 心は高く霊界を慕えども、足は地上を離るること能《あた》わざるそのあこがれ。耳に虚空の妙音の天上にのぼり行くを聞けども、身は片雲《へんうん》の風にさそわれて漂泊に終る人生の悲哀。無限の空間のうちに、眇《びょう》たるうつせみの一身を歩ませて、限りなき時間の波路を、今日も、昨日も、明日も、明後日も、歩み歩みて、曾無一善《ぞうむいちぜん》のわが身にかかる大能の情けの露に咽《むせ》ぶ者でなければ、「鈴慕」の曲の味わいはわかるまい。
 けだし、最初の人は、霊感うちに湧いてこの曲を作り、第二の人は、曲そのものを学んでその霊感に触れ、第三の人は、曲そのもののようになりて胡盧《ころ》を描く。
 知らず、竜之助はそのいずれの人?
 かくて「鈴慕」の一曲を吹きすました時に、感激はないが寂寞《せきばく》はある。
 不意に次の間で、
「ホホホホホ」
という女の声がしましたから、竜之助の眼は本能的に、その笑い声のした方へ向いましたが、もとより何物も見えるのではありません。
「誰だ」
 とがめた時に、この一室が月光のような色に冴《さ》え返って、隔ての襖《ふすま》が紗《しゃ》のように透きとおりました。
 その透きとおる襖をとおして彼方《かなた》の室を見ると(この時は竜之助のみがそれを見るのです)そこに丸髷《まるまげ》に小紋を着た女房が一人、正面を向いて頻《しき》りに着物をたたんでいます。
 尺八を机の上に置いた竜之助は、
「誰だ、そこにいるのは」
 重ねて言葉をかけてみますと、
「ホホホホホ」
と、淋しく、愛嬌のある笑みを見せて、こちらは少しも向かずに、以前の通りの形で、しきりに着物をたたみながら、
「たいそうむずかしい曲を、おやりなさいますね」
「なに」
「むずかしくてわかりません、もう少し砕けたのをお聞かせ下さいな」
「お前に聞かせるつもりで、吹いているのではない」
「それでも同じことなら、もう少しやさしい[#「やさしい」に傍点]のを吹いて下さいませんか、そら、いつかのあのしおの山[#「しおの山」に傍点]――あんなのを吹いてお聞かせ下さいましな」
「お前は誰だ、妙なことをいう女だな」
「ホホホ、お見忘れでご
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