と、どこへ行ったか姿が見えないことがあります。
それでも気にしないでいると、いつのまにか、おだやかに戻っていて、やがて尺八の音《ね》がしだしたりするものだから安心します。
お雪と、久助にさえ、存在を忘れられるくらいだから、まして同宿のほかのものが、聞きとがめたり、見とがめたりすることもなく、ただ、例の尺八の時だけが問題になるのだが、それだって、この家の一角に左様な人ありて、左様の曲を奏しているとは気がつかず、ただ、その音色《ねいろ》だけが問題になって、主《ぬし》はあらぬ方へ持って行って、かたづけられてしまうことが多いのであります。
存在を忘れられるということは、死に近づいたことを意味するか、そうでなければ、生に充実しきって、たたいても、動かしても、音のする余地がない時のことでしょう。
ひとり、この男のみは、死でもなく、生でもなく、存在の間《かん》に迷溺《めいでき》していること、昨日も、今日も、変りがありません。
申し忘れたが、この一室にも、やはり角行燈《かくあんどん》の一基が、炬燵《こたつ》の彼方《かなた》に物わびしく控えていて、何か話しかければ物を言いたそうに、話しかけないでいれば、先方から物を言いたそうに、しょんぼりと控えていることであります。
尋常ならば、その物欲しげな、ぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]とあいた口へ火が入って、待ってましたといわぬばかり、ぽっかりと明るくなる時分なのですが、自分の存在にさえ無頓着なこの室の主人が、行燈の存在などに、かまっていられるはずがありません。
冷遇せられたる行燈――これもまた天下にみじめ[#「みじめ」に傍点]なものの一つであります。清少納言は、すさまじきものの中に「火おこさぬ火桶《ひおけ》」を数えているが、夕暮になって火の入らぬ行燈は、それよりも一層、すさまじいものかも知れません。
その、すさまじい行燈でさえが、無聊《ぶりょう》と、冷遇と、閑却と、無視との間に、何か一応の怨言《うらみごと》をさしはさんでみようとして、それで何を恐れてか、それを言い煩《わずろ》うているほどに荒涼なこの一室。つまり、本来ならば、行燈そのものが化けて出そうなこの夕暮に、御当物《ごとうぶつ》が化けそこのうて、身動きもできないで、しょんぼりとすくんでいるこの笑止さが、話にも、絵にもならないのです。
室の主人は、今、腕組みをしている手
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