兵馬の目ざわりになったのは、
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我来※[#「土+巳」、第3水準1−15−36]橋上(我れ※[#「土+巳」、第3水準1−15−36]橋《いきよう》の上《ほとり》に来り)
懐古欽英風(古《いにし》へを懐《おも》ひて英風を欽《した》ふ)
唯見碧流水[#「碧流水」に傍点](唯だ見る碧流《へきりゆう》の水)
曾無黄石公(曾《かつ》て黄石公《こうせきこう》なし)
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というところの「碧流水」の三字です。
 普通は、誰も「ただ見る碧水の流るるを」とか、「ただ碧水の流るるを見る」とか吟じたがり、現に唐詩選にもそのように出ているはずなのを、この筆者は「唯見碧流水」と書いている。碧流水[#「碧流水」に傍点]ではおかしい、多分、筆勢のあまりで間違えたのだろう――というように、兵馬は見てしまいました。
 その次には、次のような文字が、無雑作《むぞうさ》に書き飛ばしてある。
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敵は大勢
味方は一人
頼むお前は二心
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 ざれがきではあるが、兵馬はちょっと考えさせられました。
 さてその次には、多分ここの温泉風呂の浴槽の写生かと思われるが、かなり心得のある四条風の筆法で、二頁大の一方に、あちら向きの妙齢の裸体美人を描いて(あちら向きだから、面《かお》は美しいか美しくないかわからないけれども、その姿から見て、美人といってもさしつかえなかろうと思われる)その左の一面に賛《さん》をして、「こちら向かんせ、雪の膚《はだえ》が見とうござんす」というようなたわごと[#「たわごと」に傍点]が書いてある。
 その次には、一人の武骨な男が、得意になって三味線をひいていると、その前に、鬼が唐辛子《とうがらし》を持ちながら、しきりに涙を流しているところがある。何の意味だかわからないが、鬼の唐辛子を持っているところが奇抜でもあれば、おかしみもあると思いました。
 その次には、猟師が熊狩をしているところがある。これも四条風の筆法で、前の後向き美人を描いたのと同一人の筆と見える。月の輪の大きな熊が、上からのしかかって来るのを、下にくぐって槍で突き上げるきわどい[#「きわどい」に傍点]瞬間を巧《たく》みに描いて、
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不入熊穴不獲熊親
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と賛がしてある。その次には夜半堂の筆法で、軽妙に近い俳画
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