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十六
その晩「鈴慕」を、宇津木兵馬は、自分の座敷で「碁経」を読みながら聞いておりました。
「碁経」は、宿に有合せのものを旅のつれづれに、ひろげて見ただけのものですが、それでも、多少下地があるものですから、見て行くうちに興をひかれて、なるほど、ここはこうして打つものかな、こんな手もあったものか知らん――と注意して行って、なるほど、定石《じょうせき》を打つと二三目は弱くなるそうだが、弱くなるのが本当だ。
自分も子供時分から器用で少しはやるが、本当にやろうとすれば、全部を白紙にして出直さなけりゃならん。無法に強いのは、強いのにならぬ。無法の勝ちは、勝っても負け――どの道も同じことだ。そんなふうに感心しながら、鈴慕を聞き流してしまいました。
尺八のことは、なおさら分らないから、いま何を吹いたのだか、当りもつかず、曲そのものに気を留めて聞こうとはしませんでした。それで、聞き終ると共に一種の哀愁を覚えて、「碁経」の巻を閉じました。
そこでなんとなく、座敷の外へ出てみたいと思ったのは、虫のせいかも知れません。
今宵は、前の晩のように間毎間毎を、探索の眼を以てたずねて廻ろうというのでもありません。
ただなんとなく、外へ出てみたくなったので、出てみる時に、おのずから足が三階の松の間へ向いました。
あの娘のことが、気になっているのだなと、兵馬は自分ながら気がつきました。
なんとなく、足がそちらへ向いて、明日立つとすれば今晩限りだ、あの娘のところへ行って、一応の暇《いとま》を告げてみたいという気になったのは、自然かも知れません。
そうして静かに兵馬は、廊下を歩んで行ったが、二階のあの角の座敷に行くには、一度、三階へ上って、それから下った方が近路だと気がつくと、そのまま三階へ上ってしまいました。
しかし、まだ名乗り合って近づきもなにもしないのに、突然こちらから訪問するのも無躾《ぶしつけ》ではないか――なあに、先方は来る早々から、あんなに親切にしてくれたのだから、その親切に対しても、一応のお礼は述べに行かなけりゃならん。
そんなふうに、自己弁解をして、三階の廊下を歩んで行くと、行手で、ふっと人の足音がしたものですから、兵馬は戸袋の隅に身をもたせかけて窺《うかが》いました。
誰だろう――暗いところで、音のした方向を見ると、人が一人、すっと出て来
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