と、この室はいとど閑寂《かんじゃく》ですが、二三間を隔てた、あとの二人連れのさむらいの部屋では、カラカラと高笑いがしたり、話に興が乗ったり、罵《ののし》ったり、噪《さわ》いだり、あざけったり、議論を闘わせたりするようなのが、ひときわ耳に立ちました。至極元気のよい人たちだが、そのわりに騒々しくないのはところがらかと思いました。
しかし、聞いていると気のせいか、二人ばかりであるべきはずの、また事実二人ばかりであるところの、二人の元気な会話の間へ、ちょいちょい女の声が入ります。
何と言っているのだかわからないが、二人が無遠慮に高話をしている間へ、女が何か言って、ちょいちょい口をはさんでは、甘えてみたり、お酌《しゃく》でもしてみたり、そうかといえば、軽くからかわれて笑ったり、手きびしいいたずらをされて、きゃっきゃっというて振りもぎっているような空気と、調子が、お雪の耳についてなりません。
最初のうちは、無論、それを自分の僻耳《ひがみみ》とばかり、問題にはしませんでしたが、あんまり長く続くものですから、お雪もようやく気になり出してきました。
あの二人が酒を飲み合って、高話をしている中に、たしかに女の人が一人、とり持ちをしているに相違ない――どうしても、そうとしか受取れない空気の動揺を、お雪が感得せずにはおられませんでした。
もしやあの人たちは、女子衆《おなごしゅ》をお連れになって来ているのではないか、とさえ疑われたものですから、お雪は、炬燵《こたつ》の中へ手を入れたままで、我を忘れて、その音を聞取ろうとしました。
つまり、あのお二人の中に女が立交っているとすれば、それはいかなる女であるか。また、はっきりとは聞取れないが、何かしきりに二人の間へ調子を合わせているあの言葉、あれは何と言っているのだか、それを明らかに聞取りたいものだと、お雪は息をひそめて、耳をすましましたが、どうも、たよりのないことには、空気と、調子はそれだが、音そのものが何を言っているのだか、その単語の一つさえ、はっきりと聞取れないのが、もどかしくてたまりません。
そこで、自分の耳のうちに起る幻覚として、それを打消しながら聞いていると、まさに男性二人だけの言葉で、それは、単語もはっきりと聞取れるが、暫くすると、また混線して、その間へ、何とも聞取れない女声《じょせい》の呂律《ろれつ》が入り来《きた》る
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