たしがわがまますぎたんでございますよ……恨みや、愚痴なんて、申し上げられた義理じゃないんですけれど、そこは女というものはね、つい、ホホホホホ」
と妙な笑い方をして、それで、恨みも、愚痴も、すっかり帳消しにしようと捌《さば》けて来たのを、仏頂寺がなおしさいらしく、
「それはどうでもいい、そんなことはどうでもいい、君たちが打捨《うっちゃ》ろうと、打捨られようとも、おいたちごっこをしようとも、それはわれわれの知ったことではないが、君たちが行方を晦《くら》ましたために、浅間では大騒ぎだ。宇津木はいいようなものの、君の方は、主人とか、抱え主とか、旦那とか、後援者とかいうものがあるだろう、それに無断で出奔するというのは甚だよくない……実はその飛ばっちりで、拙者なども、痛くない腹を探られたのみならず、膝っ小僧へ火をのせられて熱い思いをした」
 仏頂寺弥助が真顔になってこう口走ると、丸山勇仙が、
「フフフフフ」
とふき出しました。それにも拘らず、仏頂寺は大まじめで、
「おたがいに若い同士で、一時の出来心では仕方がないとして、以後は注意するこったね、そうして君は尋常に、元の雇主へ詫《わ》びをして帰らなければならん。実は、多分、二人が中房の温泉あたりと、あたりをつけて、これからわれわれが、捜索に出向いて行こうとしたところだ」
 その時まで、だまって聞いていた宇津木兵馬が、面《かお》を上げて、
「仏頂寺君、それは違う、君は、どこまでも、ひとりぎめで、その婦人と拙者とが、しめし合わせて駈落《かけおち》でもしたように思っているが、以ての外だ、なんらの関係はない、偶然に出会《でっくわ》して、偶然の道づれになったまでのことなのだ、情実関係も、利害関係も、一切ありはしないのだよ」
「なるほど……」
 仏頂寺が、なおしさいらしくうなずいてみせたが、やがて、
「そうか、全く情実関係も、利害関係もないのか。果してその通りならば、君の手から、われわれがこの婦人をもらい受けて、連れて帰っていいか」
 それは、どうも急に返事はできがたいあぶなげが伴うけれど、さきほどの口上の手前、異議は唱え兼ねて、
「それは御随意……」
と言い終ると、仏頂寺はさもさもと言わぬばかりに、
「しかと……異存はないかな。君の手からこの婦人を受取って、われわれが護衛をして、無事に抱え主のところまでかえしてやる、そのことに君は異議はないのだな」
「有るべきはずがない」
 兵馬は内心苦しく言い切ると、仏頂寺が、
「ならば、事は簡単だ。丸山、もうこれから中房まで行くがものはない、浅間へ引返そうではないか」
「そういった理窟だな」
 丸山勇仙が、空うそぶくような調子で返答しました。そこで仏頂寺は、事改めて女の方を向いて、
「ねえ、君、君はどうしても一応はその抱え主まで、わびをして帰らなければならん。そのおわびには不肖ながら、われわれが立会って、今後にむごいことのないようにして上げる。ここからは乗物か何かあるだろう、善は急ごうじゃないか、君の方に異存がなければ、これからわれわれと一緒に浅間へ帰ろう」
「どうぞ、お連れ下さいまし」
 女はわるびれずにいいました。仏頂寺はそこで、丸山の方に腮《あご》を向けて、
「丸山君、君ひとつ、そこらを駈けまわって、乗物を一挺探して来ないか、何でもいい、人間の乗れるものなら何でもさしつかえない」
「よろしい」
 丸山勇仙は命をかしこんで、さっさと物臭太郎を外へ飛び出してしまいました。
 そこで仏頂寺弥助が、改めて兵馬の方に向って、
「君、宇津木君、抜けがけをしちゃいかんよ、われわれとても、君の立場には同情し、どうか成功させて上げたいと、これでも、蔭になり、日向《ひなた》になって、相当苦心しているのだ、それを君が買ってくれないで、事毎に、われわれを出しぬくような真似《まね》ばかりされたんでは、われわれとしてもやりきれない、第一、われわれ亡者と違って、前途ある君の生涯をあやまらせたくないのだ」
 あんまり有難くは聞けない諫言立《かんげんだ》てを、聞いているのがばかばかしい。
「君たちのいいようにし給え」
と兵馬は、聞きようによっては自暴《やけ》に聞けるようなことを言って、また最初の通り、縁台の上へゴロリと横になってしまいました。そうすると、仏頂寺は女の方へ向いて、
「ねえ、松太郎君、君もそうだよ、いかに商売柄とは言いながら、少しは分別というものをおいてもらわなくちゃならん、無茶苦茶をやっては、つまり己《おの》れの身が詰まるばかりだ」
「それはよくわかっていますけれども、どうも仕方がありませんわ、運命というものなんでしょう、わたしたちの身の上なんぞは、世間並みにごらんになると違います」
「その運命というやつが不思議なものなんだ。ところで、どうだ、正直のところ、ああは言ったものの、君も一旦は浅間へ帰るとしても、末長くあの地にもいづらかろう、どうだ、われわれと一緒にどこぞへ行かないか」
「どうせ、ひびの入ったからだでございますから、どちらへでも、住みよいところへ行って、たよりになれるお方にたよりたいと思います、どうぞ、よろしく」
「は、は、は、は」
 なにゆえか仏頂寺が、わざとらしい高笑いをしたのが、兵馬の耳にたまらないほどのいやな思いをさせました。
 そこへ、丸山勇仙が、とつかわ[#「とつかわ」に傍点]と立戻って来て、
「やっと山駕籠《やまかご》を一挺探して来たよ、駕籠はいくらもあるにはあるんだが、人手が無いんだ、おどしつ、すかしつするようにして、ようやく一挺仕立てて来た」
「そうか。では、出立としよう、君」
と女を顧みて、
「駕籠が来たそうだから、乗り給え」
「はい」
 女も無雑作《むぞうさ》に立ち上りました。

 ひとり残された宇津木兵馬。
 これではなんにもなりはしない。
 自分が空遠慮をしていたために、その御馳走を、横合いから頼もしからぬ者共に、むざむざ食われている心持もしないではない。
 これを、厄介払いしたと、思いきるわけにもゆくまい。
 物臭太郎にあやかったわけでもなかろうが、兵馬は、急に立ち上る気にもなれないものと見え、包みを解いて、中から取り出したのが信濃国の絵図。それを縁台の上へ繰りひろげて、あれからこれと、指で線を引いてながめている。
 そこへ神主のような人が来たから、兵馬も、ちょっと身を起して、あいさつをする。
 神主なかなかなれなれしく、炉辺へ腰をおろして話しかけるものだから、兵馬も、
「いったい、この物臭太郎というのは何です」
「物臭太郎でございますか――それをいちいち説明して上げるよりも、ここに絵巻物がございます」
 神主は頼まれもしないのに、立って床の間から一巻の絵巻物を持って来て、
「物臭太郎物語――ね、これでございます、なかなか名文章でございますよ、竹取、うつぼ、源氏物語などとは違った面白味がございます。滑稽味のある古文では、ここらが第一等でござんしょう。日本人にはいったい、滑稽味が乏しいなんて言う人もありますが、どうして、この辺になると、古雅で、上品で、そうしてたまらない可笑味《おかしみ》がございます。ひとつ、読んでお聞かせ申しましょう、ようござんすか、お聞きなさい」
 神主はこういって兵馬の前に、その絵巻物を繰りひろげ、
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「東山道、みちのくの末、信濃の国、十郡のその内に、つくまの郡《こほり》、新しの郷《さと》といふ所に、不思議の男一人はんべり、その名を物臭太郎ひぢかず[#「ひぢかず」に傍点]と申すなり……」
[#ここで字下げ終わり]
 ここで兵馬は、ははあ、物臭太郎にも名乗りがあるのだな――物臭太郎ひぢかず、ひぢかず――という字は、どう当てるか知らないが、ともかく、物臭太郎も名乗りを持っているということを、この時はじめて知りました。
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「ただし、名こそ物臭太郎と申せども、家づくりの有様、人にすぐれてめでたくぞはんべりける……」
[#ここで字下げ終わり]
と読まれて、では、名こそ有難くはない名だが、家はこのあたりの豪族にでも生れたのだろう。そうしたものかと考えていると、神主はすらすらと読み続けて、その宏大なる家の構えぶりに抑揚をつける。
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「四面四方に築墻《ついぢ》をつき、三方に門を立て、東西南北に池を掘り、島を築き、松杉を植ゑ、島より陸地へ反橋《そりはし》をかけ、勾欄《こうらん》に擬宝珠《ぎぼし》を磨き、誠に結構世に越えたり、十二間の遠侍《とほざむらひ》、九間の渡廊、釣殿、梅の壺、桐壺、まがき壺に至るまで、百種の花を植ゑ、守殿十二間につくり、檜皮葺《ひはだぶき》にふかせ、錦を以て天井を張り、桁、梁、木の組入には、白銀黄金《しろがねこがね》を金物に打ち、瓔珞《やうらく》の御簾《みす》をかけ、厩《うまや》、侍所に至るまで……」
[#ここで字下げ終わり]
 これは大変なものだ、と兵馬が思いました。
 なるほど名こそ物臭太郎だが、この住居の結構は藤原時代で、三公を凌《しの》ぐものだ、なるほどと、兵馬が深く思い入れをした様子を見て神主は、ちょっと朗読を中絶して、
「大したものでござんしょう、これでは平安朝時代、藤原氏全盛の頃の並びなき公卿《くげ》さんのお住居です、物臭太郎が、こういった宏大な家に住んでいたと思うと不思議でございましょうが、まあ、もう少しこの先をお聞き下さい、いいですか」
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「厩《うまや》、遠侍に至るまで、ゆゆしく作り立てなさばやと心には思へども[#「なさばやと心には思へども」に傍点]、いろいろ事足らねば[#「いろいろ事足らねば」に傍点]、ただ竹を四本立ててぞゐたりける[#「ただ竹を四本立ててぞゐたりける」に傍点]」
[#ここで字下げ終わり]
「どうです、すっかり人を釣っておいて、最後に突放した手際はあざやかなものじゃありませんか、ゆゆしく作り立てなさばやと心には思えども、いろいろ事足らねば、ただ竹を四本立ててぞいたりける……が旨《うま》いじゃありませんか」
 兵馬もばかにされた思いをしながら、それでも行文の妙味に、少なからず感動させられたようです。
 眼の前にころがる餅を取ることがおっくう[#「おっくう」に傍点]で、三日の間、人の通るのを待っているという徹底した物臭ぶり。
 それでも、鳥や、犬の横取りを怖れて、棒をもって、それを逐《お》うだけの労は厭《いと》わず、三日目に馬上で来た役人をつかまえて、その餅を取らせようと試みたが、それが無効なので、さては天下にわれより以上の物臭がある、僅かに馬から下りて、餅を拾ってくれるだけの労をさえ厭う者がある、と感服していた男。
 それが、ある大納言に見出されて京都へ上り、首尾よく勤め上げて、また信濃へ帰ろうとする時の話――
 国への土産に、よい女房をつれて帰りたい。
 よい女房を求めるには「辻取り」ということをせよと教えられて、清水《きよみず》のほとりに出でて、女の辻取りをやる。
 侍従の局《つぼね》という、すばらしい女房をとっつかまえて、歌を詠みかけたりなんぞして、とうとうものにする。
 この女房が、物臭太郎を七日の間、湯につけて、二人の侍女に磨かせると、真黒な物臭太郎が、玉のように光り出す。
 これに直垂《ひたたれ》を着せ、衣紋《えもん》をただし、袴をはかせて見ると、いかなる殿上人《てんじょうびと》もおよび難き姿となって、「おとこ美男」の名を取る。
 それに、歌を詠ませると、なかなかの名歌をよむ。
 物臭太郎では勿体《もったい》ない――新たに歌左衛門という名を、豊前守《ぶぜんのかみ》がつけてくれる。
 帝《みかど》の御前に歌をよみ、御感《ぎょかん》にあずかり、汝《なんじ》が先祖を申せとある時、はじめて国許を仔細に探ると、人皇《にんのう》五十三代のみかど、仁明天皇の第二の皇子、深草の天皇の御子、二位の中将と申す人、信濃へ流されて……という系図が現われて、信濃の中将になり、甲斐、信濃の両国を賜わり、この女房を具して任国へ下り、一門広大、子孫繁昌というめでたさ。
 この物臭太郎がすなわち穂高の明
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