神となり、女房が朝日権現とあらわれる――これは文徳天皇の御時なりし……とある物臭太郎一代記を神主の口から、かいつまんで聞かされてしまった宇津木兵馬。
 すすめられた渋茶に咽喉《のど》をうるおして、いざとばかり、再び立ち出でた前路に日が高い。
 物臭太郎一代記――思い出してもばかばかしさの限りだが、時にとっての何かの暗示。
「辻取り」というのは、初めて聞いた。
 刀には「辻斬り」というのがある。柔術《やわら》には「辻投げ」というのがある。ならば「辻取り」というのもあってよかろうはず。いや、その物語によれば、辻取りは、辻斬りや、辻投げの流行せしずっと以前に行われていたはず。
 結婚は、ついに掠奪《りゃくだつ》であるというような思想が、兵馬の頭をかすめた時に、かれは浅ましい思いをする。物臭太郎の場合は、それが無邪気に実行されたのみだが――歴史は無邪気のみを教えない。
 兵馬の頭が、奪われたる女ということに向う。「辻取り」は今の世、今の時にも行われる。現に、たった今、その災難に逢ったのは自分ではないか。
 奪われた心。奪われたのではない、いわば厄介払いをしたのだが、なんとなく安からぬ心を、如何《いかん》ともすることができない。
 人もあろうに仏頂寺、丸山のやからに、むざむざと一人の女性を渡してやったその不安。
 日が高くなるほどに、兵馬にはその不安がこみ上げて来る。
 ついに決心して、自分はそのあとを追わねばならぬ、追いかけて、二人の手からあの女を取り戻して……取り戻さないまでも、あの女の先途《せんど》を見届けてやらねばならぬ。これは単に女というものに対するの未練執着ではないのだ、義の問題だ、人間の道だ。
 女の性質がどうあろうとも、こうあろうとも、むざむざと食い物にせらるべき運命をよそにして、ひとり悠々閑々の旅行ぶりが続けられるか、続けられないか。
 兵馬はにわかに腰の刀をゆり上げて、松本街道の一本道を、駈足で走り出しました。

         八

 雪に埋《うも》れんとする奥信濃の路とは違い、ここは明るい南国の伊豆、熱海街道の駕籠《かご》の中に納まって、女軽業《おんなかるわざ》の親方のお角《かく》が、駕籠わきについている、いつも、旅には連れて出るいなせ[#「いなせ」に傍点]な若い衆に向って言うことには、
「ねえ、政《まさ》どん」
「はい」
「向うに見える山はありゃどこだろうねえ」
「左様でございますねえ」
 右に青い海を隔てて、黛《まゆずみ》のようにかすむ山を主従がながめて、
「大方、上総、房州あたりだろうと思うんでございます」
 若いのが、親方から尋ねられて、覚束《おぼつか》なげに返答をすると、親方のお角が、
「そうだろうねえ、上総、房州の方角だと、わたしも、さっきからそう思って眺めているところさ」
 上総、房州では一けた違う、伊豆の半島の東南から見た眼前の突出は、当然三浦半島でなければならないのだが、この二人の頭では、陸地が海へ突き出していさえすれば、それは上総、房州に見えるものらしい。
「え、間違いありません、あれが上総、房州です、ほら、ごらんなさい、あの高いところが、あれが鋸山《のこぎりやま》でござんしょう、そうして、あれが勝浦、洲崎《すのさき》……間違いございません」
 政どんなるものが、一桁ちがいの親方の裏書をいいことにして、自説の誤りなきことを指で保証すると、お角も納得《なっとく》して、
「そうそう、あの辺が洲崎に違いない、洲崎はいやなところだねえ」
と、若いのが指さした岬の突端あたりに、遠く眼を注いでいると、
「親方が命拾いをなさったというのは、あれでござんすか、いやに波の穏かな、そのくせ、舟や人をさらって、いいようにおもちゃにするという、ふざけた海はあの辺でござんすか」
「ほんとに、いやな海だよ、だけれどもねえ……いやな海には違いないけれどもねえ」
 いやな海には違いないけれども、どうしたものか、さいぜんから、そのいやな海の方面に注いだ眼をいっこうはなさないで、
「いやな海は、いやな海だけれども、わたしにとっては、ずいぶん思い出がないでもないのさ」
「そうでござんしょうとも」
「ねえ、政どん」
「はい」
「お前、どう思ってるの」
「何をでございます」
「あの、ほら、東海道の三島の宿から下座《げざ》へ入った、お君っていう子ね」
「ええ、よく存じておりますよ……きれいな子も多いが、君ちゃんは品が違いましたよ。ようござんしたね、人柄がようござんした、ほんとうに惜しいことを致しましたよ」
「わたしも、本当に惜しいことをしたと思っているのさ、ああなるくらいなら、別に考えようもあったものをね」
「全くでございます、好いが好いにはなりません、悪いが悪いにゃなりません」
「そうして、あの君ちゃんの殿様てのは、その後どうなったか、おまえ知ってる?」
「存じませんが、ありゃ馬鹿ですよ、馬鹿殿様の見本みたようなものでございますよ」
「何をいってるの」
「え」
 お角の言葉に少し険があったので、若いのは急にしりごみをしていると、
「出放題をいうものじゃありません、馬鹿だか、エラ物《ぶつ》だか、お前なんぞにわかってたまるものか」
「でも、親方……」
「女に迷ったってお前、それが何で馬鹿なもんか、迷えるくらい結構じゃないか、高い身分で、低い身分の女を可愛がって、それがどうして悪いの、思案の外《ほか》のところがあってこそ、人間のエラさがあるんだよ、お前なんぞに、あの殿様のエラさがわかってたまるものか」
 政どんは、なにゆえに親方が急に不機嫌になったのだかわからない。
 熱海へ湯治《とうじ》といっても、この女の仕事と、気性では、そう長く湯につかっているわけにゆかないから、今日でようやく一週間――早くも帰りの旅について、これはちょうど、根府川《ねぶかわ》あたりでの物語。
 駕籠《かご》の垂《たれ》を明けっぱなして、海を一面にながめながら、女長兵衛式に納まって、外にいる若いのを相手に話すお角さん。悠々《ゆうゆう》として迫らぬ気取り方もあり、ジリジリと焦《じ》れったがる舌ざわりもあって、まずはお角さんぶりに変りはない。
 ここは雪に埋れんとする白骨の奥とも違い、凩《こがらし》に吹きさらされた松本平とも違い、冬というものを知らぬげな伊豆の海岸の、右には柑橘《かんきつ》が実《みの》り、眼のさめるほど碧《あお》い海を左にしての湯治帰りだから、世界もパッと明るい。
「そうでござんすかねえ」
「そうだとも、お前」
「やっぱり、あの殿様というのは、エライお方なんでございますか」
「エライともお前……お前なんぞに何がわかるものか」
「でも、世間の評判では、あんまりおりこう[#「おりこう」に傍点]な方じゃないって、もっぱら、そう言っているようでござんすが……」
「世間の評判なんて、何が当てになるものか、世間が何と言おうとも、エライ方は、やっぱりエライんだから仕方がないさ」
「そうでござんすかねえ」
「そうだとも、お前」
 若いのには、どうして、親方がこうも躍起《やっき》になるのだか、さいぜんからめんくらっているらしい。
 まあまあ、三千石も取る、そうして前途有望で、ドコまで出世するかわからないと言われた人が、タカの知れた身分違いの女一人のために、名誉も、身上も、棒に振ってしまった、全く馬鹿殿様と言われても仕方があるまいではないか。それを、親方のお角が、何でこんなに身を入れて、弁護するのだかわからないが、うっかりその殿様の悪口《あっこう》をいえば、親方の御機嫌がこの通りに損《そこな》われるということだけは、この際、ハッキリと経験したから、以後は自分も慎み、朋輩《ほうばい》にも申し聞けておかねばならぬという戒慎の心だけは起ったらしい。
「そうでしょうね、やっぱり、エライ人は、エライんでござんしょうよ」
 詮方《せんかた》なく感心しておくと、
「それからね、政どん」
「はい」
「わたしは、申し置いて来るのを忘れたが、あの絵の先生ね」
「ええ、田山白雲先生でございましょう」
「そうそう、あの先生に、一言おことわりをしておくのを忘れちまったから、あとからもしや間違いがなけりゃいいと気のついたことが、たった一つありますよ」
「それは何でございますか」
「もしや、がんりき[#「がんりき」に傍点]の兄さんが、留守中にやって来て、例の調子で、先生に失礼なことをしやしないか、それが、あとで心配になり出して、ことわって来ればよかったと、いまさら気を揉《も》んでいるのさ」
「なるほど、その辺もありましたねえ」
「お前、がんりき[#「がんりき」に傍点]があの通り気の早い男でしょう、絵の先生ときたら、お前、かなりの豪傑者なんだから、間違いがなけりゃいいがと心配するのも、無理のない考えだろう」
「そうでございますとも……ですけれどもね、絵の先生の方は、豪傑は豪傑でいらっしゃるけれど、人間が出来ておいでなさるから、まさか、がんりき[#「がんりき」に傍点]の兄さんを相手に、大人げのないこともなさるまいと思います、御心配ほどのことはござんすまいよ」
「そりゃそうかも知れない」
「大丈夫でございますよ」
 一けた間違えられた房総の半島がワキに廻って、当面の風景は、大山阿夫利山《おおやまあふりさん》であり、話題は留守中の人に向っている時、後ろでしきりに人の呼ぶ声がします――最初は自分たちを呼ぶのではあるまいと思ったが、今になってみると、自分たちを呼んでいるのに相違ないと疑われる。
 どうも自分たちを呼びとめるような声だけれども、待ってみると誰も来ず、来ても全く当りさわりのない人間ですから、そのまま駕籠《かご》を進ませると、
「お気をつけなさいましよ、胡麻《ごま》の蠅《はえ》が一匹ついて参りましたようですから」
 芳浜《よしはま》の茶屋あたりで、通りすがりに注意してくれた旅の人がありました。
 それとも、自分たちに注意してくれたのだか、ほかの者に気をつけていったのかわからないうちに、その旅人は行き過ぎてしまいました。
 道中に胡麻の蠅はつきものである。いちいち胡麻の蠅を怖れていては、道中はできない。またそれが一匹や二匹とまってみたからとて、驚くお角さんではありません。
 真鶴《まなづる》を通り越した時分に、またしても後ろから呼びかける声です。そうそうは振返ってもおられない。頓着なしに駕籠をやってしまうと、果して何事もなく、七ツには小田原着。
 今日はここで泊る。
 夕飯を終って、按摩《あんま》を取って、まだ寝るには早い。安閑と早寝をするのを、身体を腐らせるほどにいやがるお角さんは、寝るまでの間に何か仕事をしたい。
 といって、仕事がない。ぶらぶらと夜の小田原宿の景色でも歩いて見ようか知ら――と考えているところへ、
「お客様、講釈をお聞きにいらっしゃいませんか――いい太夫さんがかかったそうです、席はついこの後ろでございますよ」
 可愛らしい小女の女中が、突然にこういって案内をする。
「講釈?」
とお角さんが聞きとがめました。なるほど、ここは東海道筋の目貫《めぬき》と言い、箱根、熱海の温泉場の追分のようなものだから、湯治場かせぎの講釈師が溢《あふ》れそうなところだ。
 お角は、そこで講釈を聞いてみようという気にはならなかったが、講釈の席へ入ってみたいという気にはなりました。
 この女は、転んでもただは起きない女であります。たとえば往来を通りながらも、見どころのありそうな子守女を発見すると、その親許までつきとめてみたがる女であります。今夜も宿《やど》のつれづれに、宿《しゅく》を散歩してみようかという気になったのも、小田原宿の夜の気分に浸って、そうして旅心を漂わせてみようというのでもなく、何かしかるべき商売柄の掘出し物にでもありつき得れば、ありつき得なくても元は元だが、どこかに抜け目のない心の働きが、自然とそんな思い立ちをさせるものと見えます。
 講釈――と聞いて、講釈そのものには興味は催さなかったが、さて、この土地の席亭の模様はいかに、客種はいかに、講釈といううちにも一枚看板でやるのか、また
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