のはないらしいが、火だけは、人がいても、いなくても、ひねもす夜もすがら燻《くすぶ》っているから、自然、何となしに、人間の温か味も絶えないように見えます。
 兵馬は縁台の一つに腰をかけると、そのままゴロリと横になって、頭をかかえてしまいました。
 来るならば、馬の足だから、もう疾《と》うに着いてもいいはずだ。自分より先へ着いてもいいはずだ。道は例によって悠々閑々と歩いて来たのだから、途中で追い抜くくらいになってもいいはずなのだが、それがまだ着かない。
 自分で振切ったものを待っているというようになっては、後ろめたい話だが――そうかといって、約束は約束だ。
 こういう時に、吉原でさんざんに翻弄《ほんろう》された、つい遠からぬ頃の記憶が、芽を吹き出さないということはない。実は翻弄ではない、あれがあたりまえなのだ。玄人《くろうと》が素人《しろうと》をあやなす手はあれにきまったものなのだが、こっちが真剣でかかればかかるほど、その結果が翻弄ということになってしまうのを、兵馬も今は気がついているでしょう。
 多分、苦い味は嘗《な》めさせられたけれども、まだそこまでは、人生というものを軽蔑はしきれないのだろう。商売だから仕方がないものの、その多数の客のうちでは、自分だけがいちばん可愛がられていたという思い出は、まだどうしても去らないに違いない。
 だが、先方は玄人《くろうと》だ。こっちがあせればあせるほど、擒縦《きんしょう》の呼吸をつかむことが、今になって、わからないでもない。武術の上から見ても、この点は段違いだと、胆《きも》を奪われたことが幾度か知れない。夢中に夢を見て、それが夢だとは思われないと同じこと、玄人であり、商売人であり、かけ引きと、翻弄とのほかに真実味は何もない――と悟らせられながら、やっぱりそれにひっかかる。
 みようによっては、どこを見ても、ここを見ても、隙《すき》だらけだと、腹に据えかねながら、それに打ち込めない。打ち込めば、思う壺というように、あやなされてしまう。
 その太刀筋《たちすじ》がよくわかる時と、まるっきりわからないことのあるために、煮え切らない、腑甲斐《ふがい》のない、ふんぎりのつかない、なまくら者にされてしまうことが、我ながら愛想の尽きるほど心外千万だ。
 だが、あの女も、ああして老人《としより》のお囲い者となって、あれで満足していようはずはない、別に何か生涯の考えはなければならないはずだ――と、兵馬はよけいなことを考えてみる。よけいなことではないのだ。つい先頃までは、自分の心持のほとんど全部を占領していた重大事には相違ないのだが、強《し》いてそれを、ツマらないこととして葬ってしまおうと苦心している時、入口ののれん[#「のれん」に傍点]が颯《さっ》とあいたので、われにかえりました。
「来たな……」
 来たのは女だ……と思いました。それは今まで頭の中にこびりついていた元のなじみの女の顔だか、それとも馬を以て迎えにやった、かりそめの道中づれの女だか、ちょっと、兵馬の頭では混乱しましたけれども、来たのは、まさに女に違いない――と兵馬は、バネのようにはね起きました。
 バネのようにはね起きなくとも、むしろこの場は、来ても、来なくてもいいように、悠然《ゆうぜん》と横になっていた方が形がよかったかも知れないが、兵馬はとにかく、バネのようにはね起きてから、自分の軽挙を、多少にがにがしいように思い直し、わざと落ちついて、のれんの方を見ると、ほとんど音もなくはいって来たにははいって来たが、それは女ではありませんでした。
 女でないのみならず、男のうちでも筋骨のたくましい、風采《ふうさい》のいかめしい、面構《つらがま》えのきかない、そのくせ、はいり端《ばな》に兵馬と面《かお》を見合せて、ニヤリと笑った気味の悪い武芸者風の壮漢でありました。
「やあ、仏頂寺」
 バネのように起き直った兵馬がそれを見て、驚愕と、苦笑とを禁ずることができません。
「宇津木、ここにいたのか?」
 仏頂寺の後ろには、影の形におけるが如く、丸山勇仙も控えています。
 物騒なのが二人、連れ立って来るからには、もう少し肩の風が先吹きをしていそうなものだと思えないでもないが、そこは疾《と》うに亡者の数にはいっている二人の者、音もなく、風も吹かさず、入り込んで来たからとて、そう驚くがものはないのだが、兵馬は驚いたのみならず、多少、狼狽《ろうばい》の気味でさえありました。
 気味悪く、ニヤリニヤリと笑いながら仏頂寺は、兵馬のそばへ寄って来て、横の方の縁台へ腰を卸《おろ》すと、丸山勇仙もまたそれに向き合って腰をかけ、
「宇津木君、君あ存外人が悪いな」
と勇仙が言いました。
「なに、別段悪いことをした覚えはない」
 兵馬が申しわけをする。
「いかん、いかん……君は悪いことをしたつもりはなかろうが、その飛ばっちりが悉《ことごと》くわれわれの身にかかって、いい迷惑をしてしまったよ」
 仏頂寺がいう。兵馬はそれにも申しわけ。
「諸君に御迷惑をかけたつもりはないのだが……」
「あとのことは君は知るまい……時に、女はどうしたえ、どこへ連れ込んでしまったのだ、え、宇津木君」
 仏頂寺がすり寄ると、兵馬は迷惑そうに、
「女というのは、誰のことだ」
「しら[#「しら」に傍点]を切っちゃいかん、浅間の温泉場を沸き返るような有様にして、置去りにしたわれわれに一切の尻拭いをさせ、自分だけがいい子になって、お安からぬ道行とは、年にも、面《かお》にも、似合わない君の腕、全く穏かではない」
「それは諸君の勘違いだ、なんで拙者が、そんなばかげたことをするものか、第一、拙者がそんなことをするくらいなら……」
「言いわけはいよいよ暗い。浅間では、たしかに君が、あの女をかどわかして逃げたと、みんなそう信じている。よく聞いてみると、なるほどそう信ぜられても弁解の辞《ことば》がないほど、すべてが符合するのだ」
「それには、事情がある……偶然の戸惑いで……」
「その弁解を聞く必要はない、その女が、君の手にあるかどうかを聞けばいいのだ。現在、ここにいなければ、どこへ隠したか、それを聞けばいいのだ。それを聞いたからったって、なにも君からその女を取り上げようの、どうのというのではない、君もその女が好きだというし、女もまた君にたよりたいという心があるなら、われわれも一肌ぬごうではないか。女をどうした、それを白状しろ」
「知らない、左様な女には、全くかかり合いがない」
 兵馬がいいきった時に、表で馬の鈴の音です。兵馬の顔の色が少し変りました。

         七

 よくないところへ――頼んでおいた童《わらべ》が馬を引っぱって来たが、その馬の上には、あつらえ通りの女の人が乗っていたが、下りようともしないで澄ましている。
 手綱《たづな》をかいくったままで、童はのれん[#「のれん」に傍点]をかきわけて、
「旦那様、おいででしたかね」
「うむ」
「頼まれたお方を、お連れ申しましたよ」
「それは御苦労」
 そこで、はじめて、女は馬から下ろしてもらうと、笠を取って、杖を持ったままで、しゃなりしゃなりとはいって来て、
「あなた、あんまりよ」
といって、流し目に兵馬を睨《にら》みました。
 兵馬は何とも答えないで、炉の火に手をかざしていたが、仏頂寺と、丸山とは、眼を円くして、女の方を穴のあくほどながめ、
「それ見ろ」
と口には言わないが、さげすむような、あざけるような目を、ジロジロと兵馬の方へ向けて、仏頂寺がその肩を一つたたいて、苦笑いをしました。
「宇津木」
「うむ」
「お前を尋ねて、お客様が来たよ」
「うむ」
 丸山勇仙は底意地悪そうな、そうしてイヤに、ていねいに女に向って、
「さあ、どうぞ、こちらへお掛け下さいませ、さあ」
「有難うございます」
 女は杖を羽目に立てかけて、やはり、しゃなりしゃなりと、かなり人見知りをしない態度で、火の方へ寄って来ました。
「あなた、あんまりだわ、足の弱いものを打捨《うっちゃ》って、かわいそうじゃありませんか」
「打捨ったわけじゃない、おたがい同士だ」
 兵馬が苦しそうに言うと、女は、
「そなはずじゃありますまい、途中で、あなたに打捨られるつもりなら、わたしは、こうしておともをして来やしませんもの」
「それにして、お前は足が弱過ぎる」
「だって仕方がないわ、足の弱いことは、あなただって御承知の上なんでしょう。歩けるだけ歩いてごらんなさい、どうしても歩けなければ、また方法がある、とあなたはおっしゃったじゃありませんか、行詰った時に、その方法というのを取って下さらずに、おいてけぼりはひどうござんすね」
「だから、あとから馬が迎いに行ったろう」
「どうも御親切さま。せっかくでしたけれども、あのお馬には乗るまいと、わたしは考えちまいましたのよ、あの明神様の前で死んでしまおうか知らと思いましたのよ……ですけれども、また考え直して、御親切なお馬に乗せていただいて、おめおめこれまで参りました。ほんとうに御親切なお方ね、あなたというお方は……」
 兵馬は何とも答えないで、テレきっていると、ニタリニタリ笑っていた仏頂寺弥助が、傍から口を出して、
「宇津木、何とかいえよ、この御婦人が、お前を恨んでいらっしゃる」
「恨まれるほどのこともないのだ、偶然道づれになって、向うは足が遅いし、拙者の方は少し早いものだから、それで、途中、別れ別れになってしまったまでのことだ」
というと、女が少し乗り出して来て、
「そりゃ、それに違いありません、あなたがお足がおたっしゃで、わたしは生れて初めて草鞋《わらじ》というものを着けたような弱い女なんですもの……それを打捨っておいでなすったのですから、あたりまえのことですわ、足のたっしゃなお方が先に立って、足の弱いのが残されるのは、ほんとうに、あたりまえ過ぎるほどあたりまえのことなんです、どうしてお恨みなんぞ致すものですか」
 仏頂寺がそれを聞いて、しきりにうなずいて、
「その通り、その通り、足のたっしゃな者が、足の弱い者を置去りにするのは、あたりまえすぎるほどのあたりまえだ、そうでなかった日には……」
 仏頂寺は女の方に向き直って、
「時に御婦人、申し後《おく》れたが、拙者はこれなる片柳兵馬の友人で、仏頂寺なにがしと申す亡者でござるが、以来お見知り置きを願いたい。いったい、御身と兵馬と、なんらの因縁があるのだか、拙者共には更にわからないが、兵馬も歳が若いから、君もあまり、兵馬をいじめないようにしてもらわなければならぬ」
と言われて、女はにっこりと笑い、
「わたくしこそ申し後れましたが、改まってあなた様方へ、お近づきが願えるほどのものではございませぬ……浅間におりました時に、御厄介になりましたのが御縁でございます」
「なるほど……どんなふうに御厄介になったのだね」
「わたしが悪い癖で、戸惑いをしてしまったものですから、大変に御迷惑をかけちまいましたことがございますんです」
「ははあ……実はね、その飛ばっちりが、われわれの方までも飛んで来て、えらい迷惑をしてしまったよ。君はあの、松太郎という浅間の芸者だろう」
「お察しの通りでございます」
「よくない、甚《はなは》だよくない、われわれの友人、兵馬を君がたぶらかして、あっちこっちへ引っぱり廻すなんぞは、甚だよくない」
と仏頂寺が、ワザワザ睨《にら》みの利《き》かないような眼つきをして見せると、女は少し真面《まがお》になって、
「いいえ、それは違います、どちらがたぶらかしたの、引っぱり廻したのというわけではありません、こなた様にはほんとうに、はからず御迷惑をかけたり、お世話になったりして、お礼をこそ申せ、お恨みを申し上げるような義理じゃございませんのですけれど、昨夜《ゆうべ》のなされ方が、あんまりお情けないものですから……」
「なるほど昨夜、この宇津木が、君に対して、何か不人情な仕打ちに出でたものと思う、そりゃ宇津木が悪い」
 仏頂寺が呑込み顔にいうと、女は、
「いいえ、こちら様がお悪いことは少しもございません、ほんとうは、わ
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