ができません。それは誰とて、火事場へ来てのん[#「のん」に傍点]気な面をしている者もなかろうけれど、とにかく一段落ついてみれば、ホッと一息した安心の表情が多少現われても悪くはないはずですが、それがありません。
 緊張も、ある程度以上は罪悪です。人生そのものが、さながら戦場であるとはいえ、人間そのものが、いつも緊張のみしてあるべきはずのものではないのです。緩慢もなければならん、放笑もなければならん、余裕もなければならん。
 ところが、この人々は、火は消えたけれども、消して消しきれない非常がまだ残っているようです。
 それもそのはず、火事よりもなお非常な事変が一つ残されているのです。それは人命です。人間の生命の行方《ゆくえ》のわからないのが、この火事を機会としていくつも起って、それがまだ解決しきれないのです。
 というのは、一つには伊太夫の後妻、お勝の行方がわかりません。そのお勝の腹に生ませた伊太夫の独《ひと》り子《ご》、三郎の行方がわかりません。それと、この屋敷での暴女王、お銀様の姿が見えません――それともう一つ、このごろ厄介になっている不思議な勘のいい、おしゃべり坊主の行方も皆目《かいもく》知れないのであります。少なくともその四個の生命が、この火事を機会として、踪跡《そうせき》をくらましてしまいました。
 馬一頭も、犬一匹も、鶏の一羽も、生けるものの生命としては損傷もないのに、この重大な四つの人間の行方がわからないのは、これは火事以上の非常事でした。
 家は惜しいとは言いながら、藤原家の富を以てすれば、これに十倍するの新築をなすことは何でもない――ただ人命に至っては、そのいとちいさきものといえども、人間の手で如何《いかん》ともすることはできない。
 今まで帰らない以上は、心あたりの避難所という避難所をみんなさがしたが、みな手を空しうして帰って来た以上は、どうしても、その四個の生命が、この大火の下に埋められている、というこの上もなき不祥を想像せざる者はない。想像して、これを是認せざる者はない。是認して、戦慄せざるものはない。
 さしもの伊太夫も、狂気のようになって、火という火のまわりを飛び廻り、人という人をつかまえては、人間の安否をたずねている。それに和する人の声に、いずれも絶望の色の漂わぬというものはない。
 そうかといって、この余燼《よじん》をどうするのだ。余燼とはいえ、寄りつけたものではない。手のつけようも、足の入れようもあるものではない。よし、手のつけようと、足の入れようがあったにしてみたところで、かりに、その四個の生命が、この猛火の下に埋《うず》もれているとしてみて、それを、壁と、土と、木と、釘との焼屑と、どうして見分ける。
「飛んでもねえことだ、お気の毒なことだ、四人が四人、一人も助からねえとは……」
 さればこそ、この険悪と、憂色とが、すべての人を覆うている。この時、一方に遥《はる》かに歓声が上って、
「お嬢様がお帰りになりました、小坊主の弁信さんと一緒に……」
 人をかき分けた伊太夫は、お銀様を抱いて、火のようなうれし涙を見せました。
 しかし、お銀様はわりあいに冷淡で、そうして少しく臆病であっただけです。
 弁信が悄々《しおしお》として、それにつづいて来たけれど、伊太夫は、それを叱ることも、憐《あわ》れむことも、なすいとまがなく、
「お勝はどうした、三郎も一緒か」
と叫びました。
 お銀と、弁信と、二個の生命が、ともかくも無事でここへ現われて来たのが夢でない以上は、つづいて、もう二つの最愛の後妻と、生みの男のひとり子とが、そのあとに続いて来てもよかりそうなものではないか。
 ところが、それが無い!
 伊太夫は片腕にお銀様を抱えながら、しきりに片手を振って叫びました、
「お勝――三郎、三郎とお勝はどうした、お勝と三郎はまだ見えないか」
 しかし、いずれからも、その二人の姿は見えて来ないのみならず、どちらから来る報告も、その有望をもたらすことがありません。
 伊太夫は絶望の眼を以て、火の色を見つめました。
 しかし、前にいうところの如く、たとい余燼《よじん》なりといえども、この余燼の灰を掻《か》くまでには、まだ相当の時間を待たなければならないことです。よし、相当の時間を待ってみたところで、この盛んな大家の災火の底に、かりに不祥極まる運命の人間が横たわっているとして、その一片の舎利《しゃり》を発見し得る望みがありますか。
 伊太夫の周囲を取巻く人は、みな、期せずして同じように、絶望の色を漂わせていないものはありません。
 それは、前後の事情を聞き合わせて想像してみると、どうしても、不祥な判断に落ちて行かないということはできないのです。
 たとえば、一方においてこれらの人間に聞かれないところの、ある物蔭において、雇人たちのゴシップを聞いてごらんなさい。大体こんなようなことを言っているのです。
 この火事の前、お銀様が烈しく怒っていた。それは何の因縁《いんねん》だかわからなかったが、今晩の怒り方は、いつもよりもいっそう烈しかったということである。
 そこへ、例の弟の三郎が入って来た。実は三郎が来たためにお銀様が、そんなに怒り出したのかも知れない。その前後のことはわからないが、とにかく、三郎様も火のように泣き出した。そうすると、奥様が――つまり三郎様には実の母親、お銀様には継母であるところの――奥様が今日はまたそれについて、烈しい御立腹のようであった。
 火事! といった時、火の廻りの早かったこと。それは油か、煙硝《えんしょう》かの助けがなければ、到底こんなに早く火が廻るはずがないと思われたほど早かったと、その場に居合わせたもののように言う者さえある。
 その結果、ついに、つい今まで三人の方の行方不明《ゆくえふめい》となったので、弁信だけはつけたりになっている。
 これらのゴシップは、日頃が日頃だけに、だれの頭にも、多大の疑惑を植えつけぬということはない。
 親子兄弟の間が棟を別にして、絶えて往来をしないという家風――そこからだれの頭にも、この事変に関聯して、怖ろしい想像が湧かないということはないが、物蔭のゴシップにしても、そこまでは口にのぼせていう者がない。

 この時分、お銀様はもう、ずっと離れた文庫蔵の二階へ来て、屏風《びょうぶ》の中へ身をうずめてしまいました。哀れなる弁信は、かねて、自分の居間と定められた、お銀様の家の一部を焼かれてしまったものですから、身を置くところがありません。肝腎《かんじん》のお銀様がそれを忘れて、かまわないでいるくらいですから、誰とて弁信のために手引をして、新しい座敷を与えてやろうという者がありません。
 ぜひなく、欅《けやき》の大樹の下に莚《むしろ》をしいて坐り込みました。
 けやきの大樹の下に座を構えていた弁信は、今、眼前に大きな火の海を見ました。
 大火がおおよそしずまった時分になって、はじめて弁信は、その見えぬ眼前に、広大なる火の海を見ました。
 火焔何十里にひろがる火の海を見ましたが、弁信の見た火の海は熱くありません。色は赤く、紅蓮《ぐれん》のように金色《こんじき》を帯びてかがやき渡りますけれど、その火は熱くありませんでした。それは紅蓮と、金色とを流動して見せる、かぎりなき池でありました。
 そこから立ちのぼる一味清涼の風光。それを弁信はまのあたり見ていると、その紅蓮の池の真中に、二つの人の姿の裸形《らぎょう》なのが現われるのを見ました。その一つは、母と覚しい年配の女の姿で、他の一つは、まだ十歳にはなるまいと思われる男の子の姿であります。
 母子二人は、その紅蓮の池の中を楽しげに歩いていました。広大なる火焔の池の中を、自家の庭園を歩むもののように歩んでいたが、ある一点へ来ると、二人は急にそこにとどまって、相抱いて地に伏してしまいました。それは無論苦しむために地上に伏したのではなく、春の野に、もえ出したつくし[#「つくし」に傍点]を、母が子のために摘《つ》み取ってやるような気分で、地にうっ伏したものと見えるが、不思議なことには、一旦うっぷしてしまって後に、再び頭を上げることがありませんでした。さいぜんはあれほど楽しげに歩いていたものが、ここに来《きた》って、どうしても地上から起き上らないのは、なにゆえでしょう。
 弁信は、それをも不思議だと思いました。その時に火焔の海が、何十里というもの、おおゆれにゆれ渡ると、伏していた母子の姿が見えなくなりました。
 その途端のこと――その火焔の海の上に二つの髑髏《どくろ》が現われました。それはまさしくさいぜん、地にうっぷした母子の姿の見えなくなった地点であります。
 真紅の広海の上に置かれた純白な二つの髑髏――それを弁信だけが、まざまざと見ました。
 そこで弁信は思わず合掌《がっしょう》して、
「推落大火坑、念彼観音力《ねんぴかんのんりき》、火坑|変成池《へんじょうち》……」
と念じました。
 そうすると、二つの髑髏もグルリと弁信の方へ向き直って、そのうつろな四つの眼を合わせて、弁信の方を見つめ出しました。そこで弁信はいやおうなく、
「或漂流巨海《わくひょうるこかい》、竜魚諸鬼難、念彼観音力……」
とつづけますと、髑髏が喜びました。そのうつろな眼を以てしきりに、もっともっととせがむような気がしますものですから、そこで弁信は容《かたち》を改めて、妙法蓮華経観世音菩薩|普門品《ふもんぼん》第二十五を、最初から高らかに誦《ず》しはじめました。
 経を誦して半ばに至らざる時に、髑髏のうつろなる眼から、ハラハラと涙のこぼれるのを、弁信法師は確かに見ました。
 いよいよ普門品一巻を誦し終った時に、弁信の頭上のけやきの枝と葉がサラサラと鳴って、そこから人が下りて来ました。
 まさしく人の形には形をしています。真黒な裸形《らぎょう》で、眼も、鼻も、口も、少しもわかりませんが、弁信の頭の上から下りて、すたすたと火の海を渡って、髑髏の方へ行こうとしますから、弁信が、
「あなたは、どなたですか」
と尋ねますと、
「はい、私は幸内《こうない》と申します」
と答えたままスラスラと火の海を渡って、あの二人のどくろの前へ近づくと、おどり狂うように、その前にひざまずいて、やがて二つのどくろをかわるがわる両手に捧げて、立ちつ、居つ、おどっているのを弁信が、見えぬ眼でまざまざと見ました。
「是生滅法《ぜしょうめっぽう》、生滅滅已《しょうめつめつい》」
と弁信は合掌してから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と限りなく、念仏の声が口をついて出でました。

         三十三

 その火事があって幾日かの後のことでありました。恵林寺《えりんじ》の慢心和尚が、途轍《とてつ》もない大きな卒塔婆《そとば》をかつぎ込んで、従者を一人もつれずに西の方へスタスタと歩いて行くのが、白日《はくじつ》のことですから、すべての人が注目しないわけにはゆきません。
「恵林寺の大和尚が、素敵もなく大きな卒塔婆をかつぎ込んで、西の方へ向いていらっしゃるが、どこへおいでなさるのだろう」
「左様さ、どこぞの供養か、施餓鬼《せがき》へでもおいでなさるのだろうさ」
「どうです、ごらんなさい、あの大きな卒塔婆を……何丈ありますかねえ、木とは言いながら、あれだけのものは、へたな牛でもにない[#「にない」に傍点]きれますまいね」
「御尤《ごもっと》もです、和尚の力量こそ測るべからざるものです、大和尚なればこそ、あれがああしてかついで歩けるんでございますな」
「ほんとうです、あの大和尚さまの力はわかりません」
「どうです、あの卒塔婆に書いてある文句がわかりますか」
「わかりませんね」
「字が読めますか」
 霞《かすみ》を隔《へだ》てたように透《すか》して見て、
「読めません――変てこな字ですねえ、あんな字は日本の国にはないでしょう」
「悉曇《しったん》の文字というのが、多分あれなんだろうと思います」
「こちらの方の頭には漢字で弥帝※[#「口+利」、第3水準1−15−4]夜と書いてあるようですが、あ
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