かい》の国では、並びのない大家だとかいわれておりました、それをあの火は、一晩のうちになめ[#「なめ」に傍点]てしまいます」
「お嬢様――あなたは、それがいいお気持なのですか」
「まあ、お聞きなさい、人の惜しがるものでも、惜しがらないものでも、火はああして平等に灰にしてしまいます」
「平等という言葉は、左様な時に用うべき言葉ではありません」
「それでも、火には依怙贔屓《えこひいき》というものが絶対にないではございませんか、焼けるものと、焼けないものとは、火の力の度の加減があるのみで、この地上で、火に焼けないものとて、何一つもありません」
「いいえ、あります、あります」
「ありません、決してありません、火は愛です、絶大の愛です、誰が、火を怖ろしいと言いましたろう、誰が、火を災《わざわい》といいましたろう、あのくらい、隔てなく愛するものはこの世にはありません、ひとたび火の洗礼を蒙《こうむ》った人には、微塵も未練《みれん》というものが残らないではありませんか、あの絶大な愛の力に溶かされ、包まれ、同化されてゆかない何物もないではありませんか、火は力です、火は愛です、わたしはあの火にあこがれる」
「それは、力でも、愛でもありません、破壊です、絶滅です、本当の力には救いがなければなりません、本当の愛には生命がなければなりません」
「そんなことはわたしは知らない、わたしはあの火に救いを認めます、あの火に絶大無辺な愛を認めます。考えてごらんなさい、人間の愛というものに、依怙《えこ》の沙汰《さた》のないというところがドコにありますか。親が子を愛するのが本当なら、親にそむく子はなかるべきはずなのに、この世では、親も、子も、みなあいそむいています、形でそむかないものは、心でそむいています。師匠が弟子を愛するというのも、弟子が師匠を慕うというのも、みんな嘘です、嘘でないにしても、本当の愛ではありません。本当に許し合っている夫婦、信じ合っている友というものが、この世にいくつありますか。釈迦や、キリストや、孔子の愛――慈悲でさえも、総《すべ》ての人間が救われた時がありましたか。その大きな手がひとたびひろがれば、一切万物を、みんな己《おの》れのふところに同化してしまうという愛が、この人間のこしらえた、人間の産み出したものの中に、一つでもありますか。それに比べて、あの火の力をごらんなさい。王朝以来の旧家が何です、甲斐の国に並ぶもののない家柄が何です、何十代というもの、積み貯えられた金銀財宝が何です。みんなそれは浅はかな人の慾をそそり、血で血を洗わせる悪魔|外道《げどう》のまやかし[#「まやかし」に傍点]ではありませんか。そんなものがあるために、親が子にそむきます、兄弟がたがいに相愛することができません。人間のこの、普遍な愛情をさまたげるものは系図です、家柄です、それと財産です、女にとっては容貌です。まあごらんなさい、火という大明王が、その小さな愛着と、未練と、貪欲《どんよく》とを、木葉のように、広大なるつぼ[#「るつぼ」に傍点]の中に投げ入れて、微塵の情け容赦もなく、滅除し、済度して行く、あの盛んな光景を――」
「お嬢様、それは間違っております、出発点が間違っていますから、それで結論がまた間違ってしまいます、間違ったなりに徹底して、さながら一面の真理でもあるかのように聞えるのが、外道《げどう》の言葉だと私は思います。愛というものは――慈悲と申しても同じことでございますが――火のように烈しく人を焼き、水のように深く人を溺らせるものではございません。慈悲と申しまするものは、春の日のように、また春の雨のように、平和に人を恵みうるおすものでございます。時としては、秋の霜のように、冬の暁の雪のように、人の骨身を刺すこともございましょうけれど、それは人の精神を引締めるもので、人の心を亡ぼすためではありません。愛というものは、そんなに痛快なものではないのでございます。どちらかと申せば、緩慢な、歯痒《はがゆ》いところに慈悲が潜《ひそ》んでいることもございます。本当の愛というものは、急激な同化を好まずして、秩序ある忍耐を要求するものではございますまいか。一粒のお米を、自分のものとして取入れるまでに致しましても、三百六十余日の歳月を待たねばなりませぬ、そうしてその三百六十余日の歳月とても、ただ徒《いたず》らに待っているわけではございません、耕し、耘《くさぎ》り、肥料をやり、刈り取り、臼《うす》に入れ、有らん限りの人の力を用いた上に、なお人間の力ではどうすることもできない、雨、風、あらし、ひでり、その他の自然の力に信頼して、そのお助けを得ての上で、そうしてようやく一粒の米が私共の食膳にのぼるのでございます。お嬢様、あなたのお家は大家《たいけ》だそうでございますから、定めて宏大な御普請と存じますが、いかほど大きなお家でも、一夜のうちに灰となることは不思議でございません、けれども、それを一夜のうちに組立てることはできないのでございます。物を亡ぼすのが愛の仕事でございません、物をはぐくみ育てるのが愛の仕事でございます。つまり、あなた御自身が、はぐくみ育てられた恩愛というものを知ることが浅いので、物を育てるの妙味がおわかりにならないのですね、はぐくみ育てるの苦労というものを御存じないから、それで同情というものが生れて参りません――あなたは何不自由なくお育ちになりました、あなたはその豊富な生活の資料というものが、当然の権利として与えられたもののようにお考えになって、我儘《わがまま》というものは、誰にも許される人間の自由だとお考えになって、それで今日まで過ごしておいでになりました、多くの人が悩む生活の窮乏というものに、性来の御経験が無いのはあなたの幸福ではありませんでした。しかのみならず、あなたはお身体《からだ》もお丈夫で、今日まで、病気らしい病気におかかりになったことがないとのお話も承っておりましたが、それも、あなたの幸福ではございません、病気の経験の無い者を、友達にするなと古《いにし》えの人が申しました。あなたの恵まれたる生活がかえって、あなたの不幸でございました。それゆえに、何か不平不満の起りました時には、あなたは自分の仇敵《きゅうてき》のために、自分の持場を荒されたように、身も、世も、あられず、憤怒の火で心の徳を焼いておしまいになります、不平、不満の起りました時、ついぞあなたは、今まで自分の受けておいでになった有り余る満足と、我儘とに、思いおよぼしたことはございませんようです。天性、花のように生み成された御容貌が、無残にそこなわれてしまった怨《うら》みを、骨髄に徹するほど無念にくり返し、くり返し、私はあなたのお口から聞かされました。しかし、私に言わせますと、あなたの御容貌を微塵《みじん》に打砕いたそのものは、あなたの継《まま》のお母さんではありません、また、そのお母さんに味方をするという一類の人たちではありません、あなたの心の増長が、その面《かお》を焼きました」
 おしゃべり坊主は土に坐って、一気にこれだけをしゃべりました。

         三十二

「何とでもおっしゃい」
 お銀様も、土の上に腰をおろして、相変らず冷然として、おしゃべり坊主のいうことを取合いませんでした。
 火は盛んに燃えて、集まるほどの者が、それを消すべく懸命の努力を試みているのをよそに、弁信法師も、お銀様も、小高いところに坐り込んだまま動こうとはしません。
 一方、馬のいななきが盛んに聞えるのは、火を消すことに努力するものの一方には、馬のはやるのをしずめることの努力が想像されます。火を見てはやる馬は、暗い方へは逃げずして、明るい方へ進みたがることは、火取虫と同じです。そうして、その明るい方の危険なることを知らざることも、また、火取虫と同じです。
 常の世にあっては、光明《こうみょう》を求めて進むのを習いとするが、非常の時、火事の時は、必ずや暗い方へ逃げなければなりません。お銀様もそれを知り過ぎたために、逃げ過ぎました。しかし、はやり過ぎる馬の方も、どうやら押えが届いたようです。
 火は頂上を過ぎました。棟《むね》も完全に焼け落ちてしまいました。ほのお[#「ほのお」に傍点]は相変らず天を焦《こ》がすといえども、要するに余燼《よじん》に過ぎません。
 だが、こちらの方、二人は例の小高いところに腰を卸したまま、動き出そうとしないのは変りません。どちらが先に、地面に腰をおろしたとは知りませんが、ほとんど申し合わせたように、地上に坐り込んで動かないところは、動かないのではなく、動けないのかも知れません。さりとてこの二人は、非常の大変に驚愕狼狽《きょうがくろうばい》の余り、泰然《たいぜん》として腰を抜かしてしまったのでないことは、先刻からの対話でもわかります。
 こうして、坐っているところへ、大火のほのお[#「ほのお」に傍点]の光線が反射して来ました。夕暮の空に金色《こんじき》の征矢《そや》のさすように、二人は、その火光を前面に浴びました。光を浴びたところの半面はえび[#「えび」に傍点]のように赤いけれども、その後ろは鯰《なまず》の如く真黒であります。
 弁信は、もはやしゃべり[#「しゃべり」に傍点]ません。しゃべらないで、両膝を二つの手で抱えて、首をその中へうなだれています。火の方には向いていますけれども、最初から火を見ているのでないことは勿論《もちろん》です。お銀様は最初から火を見ているのです。立っている時もそうでした。話をしている時もそうでした。坐り込んでから後も、やはり火の消長を、ちっとも放すことなく注視しておりました……この時分に至って、その火を睨《にら》んでいるお銀様の眼から、ハラハラと涙のほとばしるのを認めました。
 弁信は少しも昂奮してはおりません。膝を抱いて、うれわしげにうつむいてはいるが、決して泣いているのではありません。
 峠を過ぎれば、どうしても下り坂です。いかに大家でも、棟が落ちた以上は、下火になるばかりであります。おそらく朝になっても、余燼《よじん》の勢いは変るまいが、火の勢いとしては、目立たぬほどずつ衰勢に赴くのは争われません。
 おお、おお、鶏《とり》が啼《な》いている、何番鶏か知らん。
 はやりきった馬はまだ血気が下りきるまいが、鶏は平和だ。いかに業火《ごうか》のちまたでも、修羅の戦場でも、その間から鶏が聞え出せば占めたものだ。鶏の声は、暁と、平和のほかには響かない。
 しかるにこの二人はまだ、歩き出そうということを言いません。立ち上ろうとする気色《けしき》も見えません。お銀様がそれを言わなければ、弁信がそれを促さなければならないはずなのに。弁信が立てば、お銀様もいやとは言うまいに。二人とも、どちらが、どうということがありません。弁信は相変らずうつむいて、膝を抱いた上へ自分の首を埋めるばかりにうなだれ、お銀様は穴のあくほどに火の色を見つめているが、最初のあの瞬間にほとばしり出した涙も、今になっては、すっかり乾いてしまって、冷笑気分が豊かです。ただ夕陽のような火の色だけが、二人の坐像を、紅と黒とにかっきりと描き出していることは、以前と少しも変りません。
 しかし、本来ここに作りつけてあったわけではなく、尻から根が生えたわけでもありませんから、早晩は動き出さなければならぬ運命にあるものです。
 どちらが先ということなく身を起すと、二人の影法師が原っぱの上に、火災の余光を浴びて、影を引いて動き出しました。
 ようやくにして被害地のところまで来て見ると、それは申すまでもなく戦場同様の有様であります。消防に出陣した人のすべては、まだ一人も退却したものがないようです。
 何事でしょう、火はもう鎮《しず》まったのに、人の面色《かおいろ》にまだ険悪の色が消え失せないのは。
 険悪ではない、不安の憂色です。憂えの色が、火の光と、働きの疲労に彩《いろど》られて、それで険悪に見ゆるのでした。
 しかし、険悪にせよ、不安にせよ、漲《みなぎ》り溢《あふ》れている人々の面《かお》の憂色は、拭うこと
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