ません。その時はひとり悄然《しょうぜん》として離れて、その炎の燃えて、燃えて、燃え尽きる時を待つの態度に出づるほかはありませんでした。
多分、今晩もそうしたような場合から、弁信はひとり曠野《こうや》をさまようて、空《むな》しく毀《こぼ》たれたる性格の、呪《のろ》いの、若き女人のために、無限の同情を寄せているゆえんでありましょう。
こうして、行き行く間に、一つの穏かならぬ事体を、弁信が感得しました。
行手の、ほとんど十数町を隔てたと覚しいところあたりにおいて、烈しい空気の動揺を弁信が感得しました。
普通の人の耳で聞き、普通の人の眼で見ては、何の気配《けはい》もないことも、この人の心耳《しんに》にはありありと異常が感得せらるること、今に始まった例ではありません。
「ああ、何か事が起りましたな、間違いがなければいいが」
足をとどめ、胸をおさえて、行手の方を背のびするようにして注意しました。
それからいくらもたたない後のことであります、弁信が背のびをしてながめた行手の空が、ボーッと明るくなりました。
空が明るくなってみると、四方の森、林、山岳までが反射して、おぼろながら弁信の立っている野原の中の一つの姿も見え、そうして、その背後に、大竹藪《おおたけやぶ》が屏風《びょうぶ》をめぐらしたように囲んでいるのもわかりました。
「間違いがなければいいが――」
彼の懸念《けねん》は的中したに相違ないのです。現に間違いが起ったればこそ、あの火の色。あれは尋常の火ではありません、非常の火であります。
その時分にはじめて、人の叫喚が夥《おびただ》しく聞えはじめました。ボーッと明るかったに過ぎなかった火が、炎のうらを見せはじめると、その赤味が天に冲《ちゅう》して来ました。梨子地《なしじ》をまいたような火の子が、繚乱《りょうらん》として飛びはじめました。
そう思うせいか、ちょうど、この時分になって四辺《あたり》がザワついてきて、藪《やぶ》も、畑も、山も、林も、吹きまくるような風に襲われてきたようです。そうでなくても火事場は風の多いものを、ここに心あって吹く業火《ごうか》でもあるかのように、一時に襲い来った風のために、弁信の纏《まと》うていた黒の法衣《ころも》を吹きめくられて、白衣《びゃくえ》の裾が現われてしまいました。
「悪い風だ、悪い時に――」
と弁信は憂《うれ》え面《がお》で、火の方向に向いて、歩みを運びはじめました。
弁信は勘《かん》のせいで、いかなる時にも、いかなる道をも、踏み間違えるという心配はないが、しかし、非常と知って、特に急ぐというの自由は持ちません。
憂えを胸におさえつつも、非常に向って、ゆっくりした足どりで進んで行くうちに、おびただしく馬の嘶《いなな》く声、軒の燃え落ちるらしい音、竹のハネル音、それと共に、近隣で鳴らす半鐘の音までが、いとど凄愴《せいそう》たる趣を添え来《きた》るのであります。火はようやく大きくなりました。
しかも、それはまだ七八町も離れてはいるが、弁信ほどのものが、その精密な距離の測定と共に、現に焼けつつある家が自分と、どういう関係の遠近にあるかということの見立てを、誤るという理由は少しもありません。
いま、焼けつつある家は、自分が現に厄介になっている藤原家の邸内の、そのいずれかの部分であることは間違いがありません。藤原家の屋敷では、親子兄弟がみんな別々の棟に住していますから、納屋《なや》、物置でない限り、そのうちの誰かの住居《すまい》が焼けつつあるに相違ない。誰のが焼けていいという理由はないが、もしや……と弁信の胸がつぶれるのであります。
ここで、もし弁信の眼が見えて、その鋭敏な頭脳に、火と、煙の色とが映って来たなら、直ぐにそれによって、家屋の新旧と、建築の大小を判断して、これは誰の住居だと推定してしまったでしょうが、この場合、そこまでの判断を強《し》うるのは酷《こく》です。
そうして、不自由のうちにもできる限りの用心と、速度とを以て、非常の方に急いで行きますと、その行手に当って、また一つのものを感得しました。
まさに、こちらへ向って走って来る人がある。その人は一人である。たった一人で、自分と向い合って走り来《きた》る人があることはまぎれもないと思いました。
おお、そうそう、その人の荒い、せききった息づかいさえ、この胸に響き渡るではないか。
三十一
そこで弁信が立ちどまっていると、走り来って、ほとんどぶっつかろうとして、危《あや》うく残して避けたその人が、
「まあ、あなたは、弁信さんじゃないの」
「そういうあなたは、お嬢様でございましたね」
「あ、なんだって弁信さん、今時分、こんなところを一人歩きをしているのです」
「それは、私から、あなたにお尋ねしたいところなのです、あなたこそ、どうして、今時分、こんなところへ、お一人でおいでになりましたのですか」
「エエ、わたしはね……逃げて来たのよ」
「火事でございますね」
「エエ」
「火事は、お屋敷うちには違いございませんが、どなたかのお住居《すまい》ですか、それとも納屋か、厩《うまや》か、土蔵か、物置かでございましたか」
「あのね、弁信さん、火事は本宅なのよ」
「御本宅――」
「エエ、そうして、わたしの屋敷へも移るかも知れない、あの火の色をごらん」
「それは大変でございます、それほどの大変に、どうして、あなた様だけがお一人で、こっちの方へ逃げておいでになったのですか、あとのお方には、お怪我はありませんか」
「それは知らない、わたしは怖いから、わたしだけが逃げて来ました」
そういって、お銀様は立ちどまったままで、後ろを顧みて、竹の藪蔭《やぶかげ》から高くあがる火竜の勢いと、その火の子をながめて、ホッと吐息をついた時、弁信の耳には、それが早鐘《はやがね》のように聞え、その口が、耳までさけているように見えましたものですから、
「ああ、お嬢様、あなたは怖ろしいことをなさいましたね」
「ええ」
「あなたは、いけません、それだから、私が怖れました、ああ、今や、その怖れが本物になりました」
「何を言ってるの、弁信さん」
「お嬢様、あなたこそ、何を言っていらっしゃるのです」
「わたしは何も言ってやしない、ただ、怖いから逃げて来たのよ」
「火事が怖ろしいだけではございますまい、あなたのお胸には、良心の怖れがございます」
「何ですって」
「ああ、あの火事の知らせる早鐘よりも、あなたのお胸の轟《とどろ》きが、私の胸に高く響くのはなにゆえでしょう、あの火事の炎の色は見えませんけれど、あなたの息づかいが、火のように渦を巻いているのが聞えます」
「弁信さん、出鱈目《でたらめ》を言ってはいけません、誰だって……誰だって、こんなに急いで来れば動悸《どうき》がするじゃありませんか、そんなことを言うのはよして頂戴、そうでなくってさえ、わたしは怖くてたまらない」
「何が、そんなに怖いのでしょう、火事は家を焼き、林を焼くかも知れませんが、人の魂を焼くものではありません」
「だって、だって、弁信さん、お前は眼が見えないから、それで怖いものを知らないんでしょう」
「怖いのは、火事ではありません、人の心です」
「いやなこと言わないようにして下さいよ」
「本当のことを言っているのでございます、私には、火事の火の色は見えませんけれども、心の火の色が見えます」
「今は、そんなことは言わないで頂戴」
「そうして、お嬢様、あなたは、これからどこまでお逃げなさるつもりですか」
「そうでしたね、こんなに逃げたって仕方がありませんわね、それがどこまで逃げられるものでしょう」
「わたしと一緒にお帰り下さいまし」
「まあ、ゆっくりしておいで、あの火事をごらん、まあ、なんて綺麗《きれい》な火の色でしょう」
お銀様と、弁信は、もつれるように並んで歩きながら、広い竹藪《たけやぶ》の中の小径《こみち》を通って笹の間から、チラチラと見える火の勢いがようやく盛んなのを前にして、やがて藪を出ると、そこは、だらだら下りの小高いところになっていました。
欅《けやき》の大木を横にして、いま盛んに焼けつつある大火を見ると、お銀様が踏みとどまって、
「弁信さん、母屋《おもや》が焼けていますよ」
弁信もまた、その小高いところに踏みとどまっている。小さな姿いっぱいに、火の色が照り返しています。
小づくりな、色の白い弁信の姿が、この時は紅玉《こうぎょく》のように赤く見えました。
「助かりませんか」
「もう、駄目でしょうよ」
「ああ、怖ろしい音がします」
「でも、大切なものは、みんな取り出してしまったでしょうから、安心です」
「あのお文庫倉へは火が移りませんでした? あの中には、私が聞いてさえ惜しいものがたくさんございます」
「あれは大丈夫、目塗《めぬり》が届いているから」
「あなたのお屋敷は?」
「もう焼けてしまっているでしょう、母屋《おもや》へ移る前に、焼け落ちたかも知れません」
「それでは、あなたのお屋敷へ、一番先に火が廻ったのですね」
「え」
「もしや、あなたのお部屋が、その火元ではありませんか」
と弁信が後ろを振向きました。この時お銀様は、弁信とは一間ほど離れて立っていたのでしたが、
「そうかも知れません」
「それで、お嬢様、誰よりも先にその火を見つけたのは、あなたではございませんでした?」
「ええ、そうなのよ」
「その時、あなたはなぜ、人を呼んで消し止めることをなさらないで、こんな遠くまで逃げて来ておしまいになりましたか、あなたにも似合わないことではありませんか」
弁信は、火の方に面《おもて》を向けながらこう言いましたけれど、それはお銀様の狼狽《ろうばい》を、叱責《しっせき》するの言葉でもありません。
お銀様も、それには何とも答えないで、上からおしかぶせて見下ろすように、燃えさかるわが家の火をながめていましたが、その怖ろしい形相《ぎょうそう》のうちに、白眼がちにかがやいている眼の中に、強い光の冷笑が漂うているのは不思議です。
これは恐怖と狼狽の余り、前後の見さかいもなくして、ここまで逃げて来た人の態度でも、表現でもありません。
「弁信さん、火事というものは、近いところにいると怖いが、こうして遠くで見ていると、愉快なものねえ」
と言いました。
「なんとおっしゃいます」
弁信は、こちらを向かずに、押返しました。
「弁信さん、あなたには、あの盛んな火の色が見えないでしょうが、人の災難は別として、ただ見ている分には、なんという壮快なながめでしょう」
「そうですか、左様に見えますか、人間の災難も見ようによっては、愉快、壮快というものに見えるものですか。もし、そうだとすれば、人間の眼というものは怖ろしい魔術使いでございます。私は左様な魔術使いを、自分の面《かお》の中へ置かなかったことが幸いになります。人の災難を見て、愉快、壮快と感ずるような眼という魔術使いが、私のこの小さな面《かお》という領分の中にいてくれなかったことが、不具ではなくして、光栄であったかも知れません」
「弁信さん、理窟は抜きにして下さい、火というものは愉快なものです、壮快なものです、いっそ、この地上にある最も痛快至極なものであるかも知れません」
お銀様は、冷然として、昂奮してきました。冷然として昂奮はおかしいようですけれども、事実、さきほど、弁信に行当った当時は、多少とも、恐怖と、狼狽とに、とらわれていないでもありませんでした。ここへ来て、まともに、わが家の火の全景を見渡した時、はじめて冷然として、その持てるところの強味が、土から生えたもののようであります。
これに対して弁信の落ちつきは、例によって、憂《うれ》うるが如く、愛するが如く、憐《あわ》れむが如きの冷静であります。
弁信が冷然として答えずにいると、冷然として昂奮してきたお銀様が、
「ごらんなさい、この地上に、あれほどの力を持った暴君がありましょうか」
「暴君とおっしゃるのは」
「ごらんなさい、私の家は、王朝以来の家柄だと申しておりました、甲斐《
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