ごろうじろ、忽《たちま》ち江戸の奴等と組んで、しこたまコムミッションを取ってしまわあな」
 道庵が、まじめのようにして聞きながら、茶々を入れたがるのを、僧形の同職は心得て受け流すところが、かなり道庵扱いには慣れているものと見えます。
「ところがね、道庵先生、その鈴木千七郎殿が、家老には家老でございますが、その時ようやく十七歳の若年者《じゃくねんもの》でございました」
「十七……」
といって道庵が、杯《さかずき》を下に置いて、じっと僧形の同職の顔を見据えたものですから、僧形の同職がグッと砕けて、
「さあ、もう一つ、いかがでございます」
といって、下に置いた道庵の杯に酒をつぎました。
「十七の小伜《こせがれ》……小伜様。出す奴も出す奴だが、出る奴も出る奴だ。しかし、お辞儀をしてしまうには、若いのを出した方がいいかも知れねえ」
 道庵は興ざめ顔に、下に置かれた酒を取って飲みますと、僧形の同職が、
「まあ、お聞き下さいまし。そうして尾州家は、十七歳の鈴木千七郎殿を江戸表へ差しつかわし、水野越前守殿の面前に立たせました」
「相手が悪いね、越前守ときた日には、あの通りのやり手であるのみならず、その弁舌ときた日には、徳川三百年でも、ちょっと比較のない男だよ、弁舌がさわやかで、威力があって、男ぶりがよくて、腕が出来ている。水戸の藤田東湖のようなむずかし屋でさえ、水越[#「水越」に傍点]の弁舌には参っていたよ」
と道庵が言いました。そうすると僧形の同職が、同じような調子で答えて、
「その通りでございます、その通りの威力と、弁舌で、高圧的に、御都合|之《こ》れ有り、尾州領木曾山林、三カ年間公儀へ借り置く旨《むね》の申渡しがありますと、鈴木千七郎殿それに答えて申さるるには、仰せの趣、たしかに承知致しました、しかし、私方にもこの際、一つのお願いの儀がござりまするが、幾重《いくえ》にもお聞届けのほど願わしうござりまする――と鈴木殿が、水野閣老に改まって申し出でたものでございます……そこで越前守が、願いの筋とは何事でござるぞ……千七郎殿答えて、余の儀でもござりませぬ、尾張の国一円、近年はことのほか豊作続きでござりまして、到るところ米穀が溢《あふ》れ、これを積み置く場所もなき有様でござりまする、野天《のてん》へ投げ出して、せっかくの天物を空《むな》しく風雨にさらし置くは勿体《もったい》なきことの至りでござりまする、それがために尾張領ではただいま、夜を日についで、その米穀の貯蔵所を建設中でござりまするが、なにぶんにも手廻り兼ねて、難儀を致している次第でござりますることゆえ、恐れ多い願いではござりますが、向う三年の間、大坂城を拝借の儀お許し下さるまじきや、大坂城を三年間お貸し下されて、尾張藩眼前の難儀をお救い下さるならば、木曾山三年間お借上げの儀も、まことに容易《たやす》き次第でござりまする……と、こう越前守の前で申し出でたものでございます」
「なるほど……うまいところを言ったね、それで越前守が何と言ったい」
「満座の者が、この少年家老の奇言に驚倒したそうでございます、ところが水野越前守殿が少年家老に向って、そのほう、少年の身でありながら、主人に一応の相談もなく、公儀に向って即答をなすとは奇怪千万――水野殿もさるものですから、こういって叱ると、鈴木少年家老は申しました、不肖ながら、それがしは尾張藩を代表して参上つかまつりました、拙者の申すところに一家中異議のあろうはずはござりませぬ、ときっぱりと言いきってしまったから問題はありません。これがために、大坂城の御借用はもとより、木曾山お借上げのこともおじゃん[#「おじゃん」に傍点]になってしまいました」
「そりゃ、そうありそうなことだ、そうなけりゃあならぬことです。しかし、鈴木少年家老の器量、あっぱれ、あっぱれ、まさに木村長門守血判取り以上の成績だ、誰が知恵をつけたか知らねえが、出来ばえは申し分がねえ」
と道庵も感心をしました。僧形の同職は、なお念をおして言いました、
「かりにその時、退引《のっぴき》なく三年間というもの、この木曾山を公儀へお貸し申してみてごろうじませ、それはなるほど、木曾山山林だけで、大公儀の財政の急を救ったかも知れませんが、山はさんざんになって、この頭のような有様になってしまわないとも限りませぬ」
といって僧形の同職は、自分の頭をツルツルと撫で廻し、
「しかるに先生のお頭《つむり》のように、いつも若々しく緑の色|鬱蒼《うっそう》と、この木曾の山が森林美を失わずにおられますのは、つまりその時の鈴木千七郎殿の舌一枚でございました」
と言われて道庵がくすぐったい顔をして、自分の頭の即製のハゲかくしを撫でてみました。
「それで今日は、その尾州家の木曾領お見廻りの重役が、この川狩りを検分に参りましたために、川狩りが今日は休みでございます」
 僧形の同職がこう言ったものですから、道庵は聞きとがめて、
「川狩りの検分というのは、何ですかね」
「それは、その、木曾のお山から伐《き》り出しました材木を、この木曾川から流し落すのでございます、これがまた他国では見られない見物《みもの》でございましてな」
「なるほど」
「谷に沿うたところには椹《さわら》が多くございますが、奥へ行くと檜《ひのき》が多いのでございます、千古《せんこ》斧斤《ふきん》を入れぬ檜林が方何十里というもの続いているところは、恐ろしいほどの壮観でございます。伊勢大神宮の御用林もその中にございます。それを、高さ二十間もある大木を、この辺の樵夫《きこり》は手斧《ておの》で伐り倒しますが、その技《わざ》の鮮やかさは、これも他国の者が舌を巻いておりまする。そうして、それを高いところから、時とすると五千尺も高いところから、その材木を渓《たに》へ向ってすべり落させる、それがまた命がけの仕事なんで、材木を渓谷へ落し込んで置きまして、秋の出水を待って、筏《いかだ》に組んで、木曾川の下流へ流すんでございますが、それを川流しとも、または川狩りとも申します」
「なるほど」
「もう少し御逗留《ごとうりゅう》になりますと、その川狩りの壮観をごらんに入れるのでございますが、今日はあいにくお役人の検分で……二三日しますと、上手《かみて》から流れて来た巨大なる材木が、この寝覚の床へ来ますと、この通り急に水路が縮められているものですから、幾十万本の材木が、矢の如く流れて来ては、岩にぶっつかり、材木は材木の上へ乗りかかったり、横積みになったりして、鯨のお日待《ひまち》のように累々と積み重なりますところを、熟練した川狩りの人夫が、長い鳶口《とびぐち》をもって、これを縦横に捌《さば》いて、程よく放流してやるめざましさは、さながら戦場そのままだと、見る人で驚かないものはございません」
「なるほど」
「それにもう一つ、川狩りから出た材木は、使用する人に賞美されましてな。それというのは、いったん川水を十分に含んで、それから後乾燥して縮まりますから、使用した後に狂いが来ないそうでございます。ほかの方法で運び出した材木は、そうはいかない、どうも狂いが出て困ると、その道の大工が、この川狩りの材木を賞美するのも奇妙でございます」
「なるほど、木は山から伐って、川を流して、人に使われるように出来てるものだな」
「いかがですか先生、ここを下りますると、あの一枚岩の上へ出ますが、酒肴《しゅこう》を持たせてあれへ参り、あの上で風景をながめながら、お話を伺いたいものでございます」
 僧形の同職がすすめるのを道庵は、首を横にふって、
「まあ、せっかくだが、興は満なるを忌《い》むということがあるから、この辺でチビチビやりながら、寝覚の床を鷹揚《おうよう》にながめて、貴殿の人国記を承っていれば、もうもうこれ以上は罰《ばち》が当る、このうえ押して、谷からすべり落ちて、川へでもころげこんでごろうじろ、生きちゃあ帰れねえ、ホラ、この通りの足もとなんだから」
といって、道庵は、フラフラと立ち上って見せました。
 道庵の足もとのあぶないのは、今にはじまったことではない。その足もとのあぶないことを自覚して、そうして、多少の冒険をも慎《つつし》もうとするところに、道庵の聡明さがあるといえばあるのです。
「足もとが、こんなだから、足もとの明るいうちに失礼して帰ると致しましょう、どうもはや、おかげさまで寝覚の床をとっくりと見物したから、寝ざめの悪いこともござるまい――ああ、そうだ、浦島の伝説、あれはあんまり当てにならねえ」
といって道庵は、あぶない足もとを踏みしめて縁を下りました。
 かくて上々機嫌で、臨川寺の方丈の縁を下りた道庵先生は、門前につながせた馬に乗ろうとして、例の僧形の同職に送られて庭を歩く途中、寝覚の床を眼八分に見渡しながら、
「しかし、ここで浦島太郎が釣を垂れたというのは、少少怪しいね。そもそも浦島が子の伝説は……」
と道庵は、古事記や、日本書紀をひっぱり出して、浦島の人別《にんべつ》を論じて、どうしても、あの時代に浦島太郎が、木曾の山中に来て釣をするなんていうことはない、と断定しました。
 僧形の同職は、それを聞いて同感の意を面《おもて》に現わし、
「御尤《ごもっと》もでございます、浦島太郎が、この寝覚の床で釣を垂れたというのは、全く証拠のないでたらめでございますが、一説には、こういう話がありますんですな、足利《あしかが》の末の時代でもございましたろう、川越三喜という名医が、この地に隠栖《いんせい》を致しましてな、そうして釣を垂れて悠々自適を試みていましたそうですが、その川越三喜は百二十歳まで生きたということで、土地の人が、浦島とあだ名をつけて呼んでいたそうですから、多分その川越三喜の事蹟を、浦島太郎に附会してしまったものかと思います」
「川越三喜――なるほど、あれはわれわれの同職で、しかも武州川越の人なんだ。わしはこう見えても江戸ッ児だが、三喜も、江戸ッ児みたような、武蔵ッ児の、川越ッ児なんだ。川越はお前、今でこそ薯《いも》の産地だが、黄八幡の北条の旗風には、関東も靡《なび》いたものだし、天海僧正様の屋敷だし、徳川の三代[#「三代」は底本では「三大」]将軍もあそこで生れたというところだ。近くはお前、喜多川歌麿という艶っぽいこと天下無類の浮世絵師も出ているし、狩野派《かのうは》で橋本雅邦という名人の卵や、浅田信興という関東武士の黒焼のようなものも出かかっている、なかでも川越三喜ときちゃあ、わが党の方でも大したもので、立派に藪《やぶ》の域を脱している。しかし、その三喜が、こんなところへ引込んで、浦島気取りで釣をしていたということも、はじめて承りましたよ」
「左様でございますな、古書を調べてみますというと、三喜は、寛正の六年に武州川越に生れたとあります。医師となって長享元年に明国《みんこく》に入り、留まること十二年、明応七年に三十四歳で帰朝して、明の医術を伝えて、その名声天下にあまねく、総、毛、武州の地を往来し、天文六年二月十九日、七十余歳にして病歿と記してあるようでしたが、そうなると百二十説も少々怪しくなりますが、何か因縁はあったものと思われます」
「左様《そう》さね、お説の通り、三喜は寛正の六年の四月八日に生れたんだ、お釈迦様《しゃかさま》の日だからよく覚えていますよ。何しろ名医は名医さ、古河公方《こがくぼう》を中心にして、関東の平野を縄張りにしていたのだが、長谷村の一向寺というのにお像《すがた》があって、神様扱いを受けている。日本に名医ありといえども、お像を神に祀《まつ》られているのは、東大寺の鑑真大和上《がんじんだいわじょう》と、川越三喜だけだ、同じ藪《やぶ》でもこちとらとは、格が違わあ。しかし、こちとらだってなにも卑下するがものはねえのさ、後世になれば、十八文の貧乏神に祭ってくれるものがねえとも限らねえ」
 道庵が、つまらないところで痩《や》せ我慢をいうと、僧形《そうぎょう》の同職も笑って、
「ハハハハ、左様でございますとも、後世になれば、先生と、甲斐の徳本大人《とくほんうし》とを合わせて、平民
前へ 次へ
全38ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング