「あ、わしもお正午《ひる》ごろ、その触れを聞きましたよ」
「そう、それじゃ、お前さんの方が、よく知っているでしょう、用心をするに如《し》くはないから、気をつけて下さい」
「はい」
「それでは、お米の方をたのみますよ」
と言ってお松が出て行きました。やっぱり、例のイヤな絵馬の風呂敷包を持って行こうと言わないのは、与八にしかるべく処分を任してしまったつもりなのでしょう。
 与八は、その風呂敷包を抱えて、道場を出で、高い石段を下って、街道筋の方へ出ながら、
「そうだっけな、何か江戸で悪いことをした奴があって、それを青梅《おうめ》の裏宿《うらじゅく》まで追い込んで、そこで姿を見失ってしまったが、どうもこの沢井あたりへ逃げ込んだにちげえねえということで、今日のお正午《ひる》ごろ、今お松さんがいったような触れがあったっけな……してみると今夜は、水車小屋へ泊らねえがいいかな、こっちの家へ泊った方が、みんなの安心になるかも知れねえ。だがこっちはこれで近所も近いし、お松さんという子は度胸があるから……」
 与八は、こんなことを考えながら、高い石段を下って街道筋へ出で、崖道《がけみち》を下って、多摩川の岸の水車小屋まで着いてしまいました。案内知った戸をガタピシとあけて、休ませておいた杵《きね》の間を通り、糠《ぬか》だらけの棚の板から、携えて来たブラ提灯《ぢょうちん》をつり下げ、そうして、炉の傍へ寄っておもむろに焚火をはじめて、それが燃え上るところに両手をかざし、目をつぶってどっしりと坐り込んでいると、戸一枚を隔《へだ》てた多摩川の流れが、夜の静かなほどに淙々《そうそう》たる響きを立てます。
 こんな晩だったな――そこで、与八はゾッとして、塞《ふさ》いでいた目を見開くと、運転を止めた水車小屋の荒涼たる梁《はり》から軒《のき》、高いところは一面の蜘蛛《くも》の巣がすっかり粉をかぶっている。
 そこに一本長い女帯が、だらしなく解けほごれて、蛇のように横たわっているではないか。
 それ、そこに、緋《ひ》の襦袢《じゅばん》が。おお、女が一人歯を喰いしばって身をふるわせている……あああ、結いたての島田の髪があんなに乱れちまった――あれでは帰れまい、帰されもすまい。
 女も女だ――と寛怠《かんたい》な与八が歯噛みをする。
 再び目をつぶって、長い鉄火箸《てつひばし》をとって、盲《めくら》さがしに火を突っついていたが、どうも女の息づかいが……荒い。どうしてこの息づかいが、今以てこの水車小屋を去らないのか。
 いけない、いけない。
 与八は、この時、携えて来たイヤな絵馬を取って炉の火に焼き捨てようとしたが、その途端にまたゾッとして、絵馬を持つ手をわななかせたのは、それは、今以て残る女の亡霊の幻《まぼろし》とやらに驚かされたのではありません。与八は、その途端に、遠く犬の吠《ほ》える声を聞きました。
 犬の吠える声といっても、それは尋常の犬の吠える声ではありません。ここよりは頭上にあたる机の本家、今はそこに飼われているムク犬が、何に驚いてか、鐘をつくような声で吠えるのが、ありありと与八の耳に入りました。

         二十四

 ムクは滅多に吠《ほ》えない犬であります。
 現にここへ来てからにしてが、ほとんどムクの吠えたというのを聞いたものがありますまい。ムク犬の吠えないだけ、それだけ平和であり、ムクの吠ゆる時は、尋常の時でないことは、与八もよく知っているのであります。
 そうして、かなりの遠くの距離にいて、多くの雑音の中にあっても、ムクの吠ゆる声だけは、いつも殷々《いんいん》として聞き取ることができるのであります。
 そこで与八は、何か本家の方に非常が起ったのだと胸を打たれました。その非常の程度はわからないが、ああしてムクの声が聞えたことそれだけで、人間の騒ぐより以上の何事かが突発して来たものと見て、さしつかえないのであります。そこで与八が胸を打たれて心配しました。
 心配したけれども、しかし絶望はしません。
 ムクの吠えたのが非常を示すと共に、ムクの存在ということが、非常な心強さを与えるものであります。何となれば、ムク犬が存することによって、幾多の人間が備えている以上の安心を、保証し得るからであります。
 ひとたび心配した与八は、二度《ふたたび》安心はしましたけれども、ともかく、ああして非常の暗示があってみれば、ここにこうしているわけにはゆかない。そこで本家へ取ってかえそうとして鈍重な身を起しかけた時、不意に裏口の戸があいて、そこから声もかけずに人が一人飛び込んで、また素早《すばや》くその戸を閉《とざ》してしまったことを知りました。しかしそれは鈍重な与八が身を起しかけた途端、その背後で起ったことですから、与八は、その入り込んで来た人の影をだに見ることができないすきに、その人の形は、この水車小屋のいずれを見廻しても、認むることができないのであります。
「誰だい」
 与八は片膝を立てながら、四方《あたり》を幾度も見廻して、呼びかけてみたが返事がありません。返事がないのみならず、ほとんど人の気配《けはい》がないのであります。
 果して人間が入って来たものならば、そのいずれに隠れたにしても、多少の間は、空気の動揺というものが残らなければならないはずでありますが、物音のしたすきまに、その空気の動揺が消え去ったのは――或いは全く空気を動揺せしめずして、身体だけを運行させたもの――それは煙か、幽霊かでなければできないことのように思われますけれど、いま入って来た人は、入って来た人があると仮定して、その人は、たしかにそれを行なっているもののように思われます。
 それですから、与八はそこに自分の耳を疑いました。ははあ、これは自分の空耳《そらみみ》だな、犬が吠えて、非常が暗示されたものだから、疑心暗人というようなわけだろう。しかし、戸があいたには確かにあいた。戸があいて、そうして同時に締められるには確かに締められたはずだから、どうもあきらめきれないで、立ちあがってから再び、小屋の隅々までも見廻して、
「誰だい、誰かへえ[#「へえ」に傍点]って来たのかね」
 どうも、立去り兼ねるものがある。
「待てよ」
 そこで与八は提灯《ちょうちん》に火をうつして、裏の戸口のところへ行って、仔細に、戸と、その板の間のあたりとを、提灯の光で照らして見ました。
 それは争われない。尋常の板の間ならば何でもないことですけれど、水車小屋の板の間ですから、粉と糠《ぬか》で、霜を置いたようにいっぱいに塗られてあるところですから、そこに手足の指のあとと、着物で掃かれた粉末の飛散のなごりをとどめないというわけにはゆきません。
「いる、いる、たしかにこん中に、人がいるに違えねえだ」
と与八が声を立てた時、後ろから与八の首へ、すっと一筋の縄が巻きつきました。
 その縄に巻かれると、大力の与八が、もろくも囲炉裏《いろり》のそばまで引き戻されてしまいました。それは拒《こば》めば首がくくられるからです。自分の力で、自分の首をくくられるのがいやならば、おとなしく、引かれる方へ引き寄せられるよりほかはない。その点においては、与八は天性心得た無抵抗の呼吸を、のみこんでいるもののようでもあります。
 しかし、後ろから音もなく、与八の首へ縄を巻きつけたその人とても、必ずしも与八をくびり殺そうとして、そうしたわけではなく、この際、与八に声を立てられることを怖れての非常手段と見えますから、あちらからいえば、正当防衛の一手段に過ぎないかも知れません。大へんおとなしく、素直に与八を引き寄せて来て、
「声を立てないでおくんなさいね、少しの間、ここへ、私を隠しといて下さい、たのみますよ」
 その人が、与八を引据えるようにして、自分もそれと向い合って、炉辺に坐りこんでしまったのを見ると、与八には馴染《なじみ》とはいえないが、珍しくもない裏宿七兵衛でありました。与八は、恐怖と、驚愕と、それから与八にしては珍しい幾分の叱咤《しった》の気味で、
「お前さん、どこの人だか、不意にはいって来て失礼じゃねえか」
 ゆるめられた縄の下から、与八がこう言いました。七兵衛は騒がない声で、
「どうも済まなかった、かんべんしておくんなさい。実は今そこで、おそろしく強い狂犬《やまいぬ》に出逢《であ》ったものだから、逃げ場を失って、こんな始末さ。なにも、お前さんを苦しめようのなんのというのが目的じゃねえんですから、どうか、勘弁しておくんなさいまし」
「うん――」
と与八は、おとなしい眼を不審の色に曇らせて、改めて七兵衛の姿を見やり、見おろし、
「お前さん、狂犬《やまいぬ》に吠《ほ》えられたとお言いなすったね」
「ああ、どこの犬だか知らねえが、この上の方に、おっそろしい強い狂犬がいるよ」
「お前さん、ありゃ狂犬じゃありませんよ」
「え、どうして」
「ありゃ、ムクですよ」
「ムク……」
「ムクが吠えたんですよ」
「ははあ、なんにしても、すっかりオドかされてしまいましたよ」
「お前さん」
 与八は、しげしげと七兵衛の姿を見ているから、七兵衛は少しバツが悪く、
「何だい」
「お前さん、何か悪いことをしたろう」
「えっ」
「何かお前さん、悪いことをして来たね」
「飛んでもねえ、私は何も悪いことなんぞをする人間じゃあねえ、この通り、六郷下《ろくごうくだ》りの氷川《ひかわ》の筏師《いかだし》だよ」
「いけねえ、お前さん、何か悪いことをして来たから、それでムクに吠えられたのだ」
「冗談《じょうだん》いっちゃいけません、犬に吠えられる奴が、みんな悪い奴であった日にゃ、夜道をする奴はみんな泥棒……だね」
「犬に吠えられる奴が、みんな悪い奴たあ、いえねえかも知れねえが、ムクに吠えられる奴は悪人だ」
「どうして」
「ムクという犬は、いい人に向っては、決して吠えねえ犬なんですから……」
「いよいよ冗談ものだ、人間でせえ、人物の見定めというものは容易につかねえ、まして犬に、人間の賢愚、不肖がわかってたまるものか」
「ところがムクには、それがわかるから不思議じゃありませんか――もし、お前さんが、ムクに吠えられて、ムクに追われたとしたら、お前さんは、たしかに悪いことをして、そうしてここへ追いつめられておいでなすった人に違えねえ……」
 与八がキッパリと言いきったので、七兵衛が、思わず眼をみはって与八の面《かお》を見ました。
 与八の言葉を聞いた七兵衛は、非常に驚かされてしまいました。
 この若い男は、少し足りない男のように思われるが、その言い出すことは、人の腸《はらわた》を読んでいるようだ。
 いや、この男が読んでいるならとにかく、その何とかいう犬が、こっちの裏も表も読みきっていて、善悪正邪も、賢愚不肖も、いちいち鑑定して置いて、吠えにかかるのだというのが癪《しゃく》じゃないか。
 どこまでも、世渡りの裏を行って、生馬《いきうま》の眼を抜くという人間共のかすりを取って、なにくわぬ面《かお》で今日まで生きていられた自分というものが、今晩はここで、人並足らずの間抜けのような若い男と、畜生の一つのために腸《はらわた》まで見透かされているというのも、痛いような、痒《かゆ》いような、くすぐったいような、わけのわからぬ訳合《わけあ》いのものだ。
 そこで七兵衛は、空しく、
「なるほど」
と頷《うなず》いて、与八の面《かお》をながめたっきりです。
「この縄を取っておくんなさい」
と与八が言いました。放心したもののような、緩《ゆる》めきってはいたが、さいぜんの縄は、やはり与八の首に巻きついているには、巻きついていたのです。
「なるほど」
と言ったが七兵衛は、要求通り、その縄を外《はず》してやろうでもなし、それを強く締めようでもなし。
「ねえ、縄を取っちまっておくんなさいよ」
「ま、待ってくれ」
 七兵衛は耳を澄まして、何か物の気配《けはい》をうかがおうとしているのは、つまり犬が怖いのでしょう。たった今吠えられたという犬が、自分のあとを追いかけて来て、或いはその辺の戸際に待伏せでもしてはいないか。一
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