るがよろしい」
与八は、それを聞いて、委細わからないなりに恐れ入って、
「はい、はい」
とお辞儀をしました。
「いいか、よくこの事を主人に申し聞かせるのだぞ。なお念のために、この通り書面に認《したた》め参った、これを主人に手渡し申せ」
と言って、笈川と名乗った異体の知れぬ豪傑の中の一人は、懐中から奉書の紙に認めた書状を取り出して、与八の面前でひろげ、他の六人がそれに添いだちになって、
「なお、念のために一応、そのほうに読み聞かせて置く」
といって、笈川が滔々《とうとう》とその奉書の書状を読み上げました。むずかしい文章体で書いてあるから、与八にはよくのみこめませんでしたけれど、要するに、さきほど、総代が言葉で述べて、与八に申し聞かせたのと同じ意味のものであるらしく思われましたが、与八は、どうもこの人たちが、何か誤解をしているのではないかと考えました。
二十三
七人の豪傑は、与八にその奉書の書面を手渡したままで、無事に帰ってしまいましたから、与八も、わけがわからないなりに、ひとまずは安心しました。
その書面を恭《うやうや》しく神棚の上へ載せて、何かあの人たちは勘違いでもしているのだろう、わたしたちのすることを、切支丹《きりしたん》の宣伝でもするかのように誤解して、国のためにそれを憂えて、忠告に来てくれたのかも知れないが、自分としては何と返答をしていいかわからない、お松さんが帰ったら、二人で相談して、なるべくあの人たちの怒りをしずめるような御挨拶をして上げたいものだと、腹に考えながら、道場の片隅で藁打《わらう》ちをはじめました。この藁を打つのは、草鞋《わらじ》をつくる材料を和《やわ》らげるためであります。
その日、お松の帰りは夜になってしまいました。
「与八さん、今日は松茸《まつたけ》で夕飯を食べようじゃありませんか」
乳母《ばあや》は子供たちを寝かしつけているところですから、お松は松茸を料理して、与八と二人だけで夕飯を食べました。
「ねえ、与八さん、もう、あたし、あなたの親御さんたちをたずねるのを、止《や》めようかしらと思ってよ」
「そうですか」
「尋ねないでいた方がよかあないかしら、と思いつきました」
「それもそうかも知れませんね」
と与八は、どうでもいいような返事をしましたけれど、心のうちは、決してそうでないことをお松がよく知っています。自分の両親の、せめてその一方をだけでも、与八は知って置きたいという常々の願望を、口には出さないけれど、その折々《おりおり》にお松が察しているものですから、お松から勧めて、その捨てられたという場所へ地蔵様を立てさせたり、それを最初に見つけたという人の縁故をたどったりして、何がな与八の本心のよろこびを迎えようと力《つと》めているくらいですから、お松の方から改めて、こんなことを言い出すのは、自分としても心持よくないし、与八をもかなり失望させるに相違ないとは思いながら、何か思いさわる事あればこそ、こうも言い出してみたのでありましょう。しかも、思い止まろうかと言い出したお松に、思いとどまる気のないように、どうでもいいことのように、返事をした与八にも、必ずしもどうでもいいとは、あきらめ切れないことでしょう。
そこで、お松は、何ともつかずにこう言いました、
「ねえ、与八さん、もし、お前の本当のお父さんという人が、悪い人だったら、どうしますか」
そこで与八が、
「悪い人だって、親は親だからなあ」
と返答しました。
「でも、その悪いというのが、ただ喧嘩が好きだとか、お酒のみだとかいうばかりじゃなく、もしかして、悪い罪を犯している人だったらどうします」
「悪い罪を犯したって、犯さなくったって、血を分けた親子の縁というものは、切っても切れねえだろう、ねえ、お松さん」
与八は食事を終って、箸《はし》を下に置きながらこう言いますと、お松が、
「それは、そうに違いないけれど、もしかして、そんな人であったなら、いっそ、尋ねない方がいいじゃないかしら」
「どうしてね」
「せっかくの与八さんまでに、迷惑がかかるといけませんからね」
「そうかなあ」
与八の面《かお》の色が少し曇ります。それを慰め面《がお》にお松が、
「ねえ、与八さん、生れぬ先の父ぞ恋しきという歌を御存じでしょう、生みの親も大事だが、それよりも大事なのは、生れぬ先の親だと、大禅師が説教でおっしゃったのを、お前も聞いていたでしょう」
「うむ」
「おたがいに、生みの親を尋ねることはやめてしまいましょうか――」
とお松から言われた与八は、箸を置いたまま、小山のように坐って考え込んでいました。
食事が済んでから与八は、また道場へ戻って、そこで再び藁打《わらう》ちをはじめようとしました。
暗いものですから、行燈《あんどん》をともして、それから仕事にかかろうと、片隅の方に置いていた行燈に、さぐり足で近寄ろうとして物につまずきました。
なにかしらん。思いがけないところで、物につまずくと、そのハズミでバリバリとその物を踏み裂いてしまった音がしたので、与八も狼狽《ろうばい》して手さぐりにして見ると、相応の四角な薄手のものを包んだ風呂敷包です。
はて、こんなものをここへ、自分は置いといたはずはないのだが、何か知らん。どうした間違いか知らん、今の足ざわりと、物音では、自分が、この中のものを踏み砕いてしまったことは確かである。はて、大事なものであってくれなければいいが……
そこで、与八は歩き直して、ようやく行燈に火をつけて、そこで今の踏み砕いたものを見ると、いつも、お松さんが持ってあるく風呂敷には違いない。では、お松さんがここへ置いといたのだ。それを自分が過《あやま》って踏み砕いてしまったのだ。中は何だろう、済まないことをした、どうも済まないことをした、と与八は一層の心配をはじめました。
包み方が簡単であったために、その一端が風呂敷の外に露出しているから、中の品物の何物かを認めるのは骨が折れません。それはありふれた納め物の絵馬《えま》です。そこらの辻堂の中あたりにいくらも見られる絵馬であることは確かだが、絵馬だからといって、踏み砕いてしまったのでは相済まない。修繕の工夫はないものか知らんと、知らず識《し》らず与八は、もうすでに片肌ぬぎになっていた絵馬の全身を露出させてしまって見ると、無残にも、それはホンのハズミに踏んだばかりですけれども、与八の馬鹿力で一たまりもなく、真二つに踏み裂かれてしまっていて、繕《つくろ》うべき余地もありません。
済まないことをしてしまった。せっかくお松さんが大事にして持って来たものを、自分が足にかけて踏み砕くなんて……そんなところへ置いたものが悪いか、それを踏んだ者が悪いかは考えずに、与八は只管《ひたすら》に、自分のみが悪いことをしたと恐懼《きょうく》して、行燈の下へ持って来て、ひねくってみましたが、その時まで閑却《かんきゃく》されていたのは絵馬の面《おもて》です。それは与八が血のめぐりの悪いせいばかりではありますまい、大抵、この類《たぐい》の絵馬の模様というものはきまりきったもので、特別の注意を惹《ひ》くべき絵であろうはずもなく、また描き方も尋常一様に、板に乗っていたせいかも知れません。
二度目に気がついた時、与八もさすがに驚かされてしまいました。
何ということだ、この絵馬には人間の生首が描いてある。しかもその生首とても、尋常一様の小児のたわむれではない、相当の分別ある人が描いたもので、しかも梟物《さらしもの》になって、台の上へのせられているところの図にまぎれもありませんから、血のめぐりの悪い与八も、驚かないわけにはゆかなかったものです。
いたずらにしても、イヤないたずらだ。それをまたお松さんが、後生大事《ごしょうだいじ》に、風呂敷に包んで持って来たのは、どうしたわけだろう。それをまた、あの行届いた人が、こんな人の踏みそうなところへ置きばなしにして、忘れてしまっているらしいのも合点《がてん》がゆかない。と、ここに至ってはじめて与八は、お松のお松らしくない物の扱い方を考えてみる気にもなったようですが、どうしても、これはあやまらなければならない。
と、風呂敷へ包み直して、そこへ置きましたが、さいぜんの食事の時のお松の言葉といい、こんな不意のイヤなハズミといい、何となく物を思わせられるような晩であると、急に立つ気もなく、胡坐《あぐら》を組んだままで、やや長い時、ぼんやりとしていましたが、あやまりに行こうともせず、そのまま槌《つち》をとり上げて藁《わら》を打ちにかかりました。
与八がこうして、ボンヤリと考え込みながら藁を打っていると、表の戸をトントンとたたいて、
「与八さん、与八さん」
「お松さんかい」
「あのね、与八さん、わたし、忘れ物をしましたが、そこらに風呂敷包がありませんか」
「ありましたよ」
「済みませんが、ここの窓から出して頂戴《ちょうだい》な」
「待っておくんなさい」
与八は槌を下へ置いて、手を延ばして、風呂敷に包んだ例の絵馬を引き寄せながら、
「お松さん、あるにはあるが、ほんとうに済まないことをしちまったよ」
「どうしたの」
「あのね、暗いところにあったものだから、ツイ、わしが足で踏みつぶしてしまいましたよ、それで今、あやまりに行こうと思っていたところだよ」
「まあ……」
外に立っていたお松は、その時、外から手をかけて戸を引きあけて中へ入って来ました。
「沢井」という字だけが見える手ぶら提灯《ぢょうちん》をさげていましたが、
「それは、わたしが悪かったのよ、そんなところへ置きばなしにしておいたから、わたしが悪かったのです」
「こら、こんなにグダグダに砕けてしまった、ほんとうに申しわけがありましねえ」
「かまいません」
お松は、踏み砕けたままに風呂敷に包まれた絵馬を、与八の手から受取って、
「かまいませんとも、イヤな絵だから、このまま捨ててしまおうと思っていたくらいなんですもの」
「お松さん」
「ええ」
「お前は、どこから、そんなイヤな額を持って来たの」
「与八さん、お前、この中を見てしまったのですか」
「ああ、見てしまったよ、わしもイヤな額だと思った、お松さんがこんな物を持ち歩くはずはねえと思ったから、誰かのいたずらじゃねえかと思ったが、それでも風呂敷がお松さんのだから……」
「そうよ、わたしのに違いないのよ、わたしは妙なところでこれを手に入れたものだから、与八さんに見せようか知ら、それとも見せまいか知らと、考えながら、つい置き忘れたんですが、見られてしまっては、もう仕方がないが、気にしないで下さい」
「別に気にするでもねえが、誰のいたずらだか」
「ねえ、与八さん、あとで、お風呂の下かなにかで焼いてしまって頂戴な」
「うん」
「それから与八さん、もう一つ済みませんがね、これからちょっと、水車小屋まで行って来て下さいな」
「何しに」
「お米がなくなったそうですから、一俵持って来てやって下さいな」
「よしよし」
と与八は膝の藁屑《わらくず》を払って、台や、槌《つち》を片寄せながら、
「急ぎかね、お松さん、米のいるのは」
「なに、今晩と、明日の朝の分はあるんですとさ」
「ははあ……じゃあ、今晩、わしぁ、あの水車小屋へ泊って、明日の朝早く持って来りゃあ、それで間に合うね」
「え、それで間に合います」
「じゃあ、わしぁ、今晩は水車小屋へ泊って来るかも知れねえ、どっこいしょ」
与八は立ち上りました。
「じゃあ、頼みましたよ」
お松は砕けた絵馬の風呂敷を取りに来ながら、受取らずして行ってしまいました。
しかし、いったん立去ったお松が、まもなく取って返し、
「ねえ、与八さん」
「何だね」
「もう一つ言って置くことがありますよ、あのお隣りの作蔵さんがお湯に来ての話ですが、昨日あたりこの村へ、お役人に追われて、悪い泥棒が一人入り込んだんですって」
「へえ……」
「だから、用心をおしなさい。また怪しい者と見たらば、つかまえるか、お役所へ申し出るように、触《ふ》れが廻ったんですって」
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