、今、駒井の研究心を刺激していると思われるのに引きかえて、田山白雲は放胆に、
「実際、この辺の海には竜というものがいるのかも知れん、馬琴の八犬伝のはじめの方に、素敵な竜の講釈が出ている、あれによると、竜というものにも、かなりの種類があることを教えられる――」
「有史以前にはねえ……」
八犬伝の竜説は一向、駒井の念頭にはないと見えて、ほかの方に話材を持って行き、
「有史以前には、竜のようなものがあったかも知れない――この間、支那の書物で『恐竜』という文字を見たが、あれは支那本来の文字ではないらしい。事実、この人類以前の世界には、竜に似た百尺程度の大きな動物が地上にのたうち廻っていたように、西洋の本には書いてあるのだが、そういう時代の想像が、人間の頭のどこかに残っていて、そうして、竜という不可思議な動物をこしらえ上げたのかも知れない。人間の想像し得るかぎりのものには、大抵、事実上の根拠があるのだから」
「といって、人間の存在しなかった時分の存在を、どうして人間の頭で想像がつきます、生れぬ先の父ぞ恋しき、というわけでもなかろうに」
「いや、人間は存在しなくとも、人間の胚子《はいし》、或いは精虫といったようなものは存在していたに相違ない。それが先天的の印象で、人間の形になるまで残っていて、想像が働き出した時には、生れぬ先の父でもなんでも、形に表現してみることになるのじゃないか知らん。事実、人間が想像だの、空想だの、不可思議がるものは、みな前世界の実見の表現ではないかしらと、このごろは、そう思わせられることが多い」
「そうしてみると、その前世界とか、有史以前とかいう時に生きていた不可思議な動物というのが、今日、生きていないのはどうしたのです」
「それは種が切れたのだな」
「種が……」
「今日、想像だけに上って、実際に見ることのできぬものは、すでに、その種族が絶滅してしまったのだ」
「ははあ、種切れになったのですか。してみると今日、われわれのように、人間の形をとって生きている生物も、次の世界には、種切れになってしまうと見なければならん」
「左様、この地球――この地上が、地上として今日のように固まるまでには、幾多の生物が現われて蕃殖《はんしょく》したかと思うと、それが全く種切れになって、次の時代に移り……」
駒井甚三郎が竜の疑惑から、種《しゅ》の問題に進んで行く時、あわただしく金椎《キンツイ》が紙を持って来て、二人の前に提示しました。それを読むと、
「茂チャン帰リマセン、ミドリサンモドコカヘ行ッテシマイマシタ」
十六
清澄の茂太郎が、ふと蘆笛《ろてき》の吹奏をやめて、黍畑《きびばたけ》のあなたを見やった時、せっかく、首をふりかけた表情のない動物が、愕然《がくぜん》として恍惚《こうこつ》から醒《さ》めて、のどを鳴らしはじめました。そこで、黍畑のあたりを見ながら、例の卒塔婆《そとば》を折りくべて、茂太郎は反芻《はんすう》の歌をうたい出しました。
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神のことごと
つがの木の
いやつぎつぎに
天《あめ》の下《した》
知ろし召ししを
空にみつ
大和《やまと》を置きて
青丹《あをに》よし
奈良山《ならやま》越えて
いかさまに
思ほしめせか
天離《あまさか》る
鄙《ひな》にはあれど
石走《いはばし》る……
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ここでは中音《ちゅうおん》で歌いました。
これは、お雪ちゃんからの伝授であろうと思われます。今まで、いつどこで、茂太郎が万葉集を習ったということを聞きませんから、月見寺にいる時にこそ、お雪ちゃんの口ずさみを聞きなれて、聞きよう、聞きまねに、口をついてほとばしるものでありましょう。
「茂ちゃん、茂ちゃん」
不意にその黍畑《きびばたけ》の方から、名前を連呼しながら飛び出して来たのは、兵部の娘です。
「お嬢さんかエ」
「あい、お前、そこで何をしていたの」
「笛を吹いていましたよ」
「誰にことわって、こんなところへ来てしまったの」
「つい、あるきたくなったもんだから」
「帰る気はないの?」
「だって、着物が乾かないんですもの」
「どうして、着物を濡らしたの」
「海へ、落ちたから」
「海へ落ちた? そうして、海竜《うみりゅう》が出たっていうのを知っている?」
「知らない」
「海竜が出たって、今、逃げて行った人がありますよ」
「あたしは知らないのよ」
「みんな心配するといけないからわたしと一緒にお帰り」
「お嬢さん、なんだか、あたいは、どこへも帰りたくなくなった」
「どうして」
「でも、なんだか、淋しくってたまらないもの」
「淋しければ、一層、お前、大勢の中へ帰ればいいじゃないか」
「それでも……弁信さんがいないもの」
「茂ちゃん、お前はよく弁信さん、弁信さん、て言うけれど、そんなに弁信さんていう人がいい人なの」
「いい人というわけじゃないけれど、さぞ、あたしを尋ねていることだろうと思うと、あたしも、あの人に逢いたくってたまらないのよ」
「駒井の殿様もいらっしゃるし、白雲先生もおいでになるし、金椎《キンツイ》さんだって悪い子じゃなし、それに、わたしというものもいるのに、それだのになお、お前は、弁信さんという人が、そんなに好きで、みんなをあとにしても、それでも弁信さんに逢いたいの、それほど、弁信さんという人はいい人なの?」
「どうかして、ここへ、弁信さんを呼んで来ることはできないか知ら」
「ところさえわかれば、できないことはないでしょう」
「それがわからないのです。さっきは、富士山の後ろの方から面《かお》を出したから、たしか、あの辺にいるのかも知れません」
「富士山の後ろって、お前……そんなお前、広いことを言っても、わかりゃしないじゃないの」
「ああ、弁信さんに羽が生えて、この海を渡って、飛んで来てくれるといいなあ」
「弁信さんて、そんなにいい人なの、憎らしい、弁信坊主――」
といって兵部の娘は、海を隔《へだ》てて罪もない富士山を睨《にら》みました。
「お嬢さん、千鳥の笛を吹いてみましょうか、千鳥の笛をね」
茂太郎は、兵部の娘のひがみをよそにして、蘆管《ろかん》を火にかざしてあぶり、おもむろに唇頭へあてがって、
「まず大雀《おおじゃく》を吹いてみましょうか」
千鳥を吹くというから、「しおの山」でも吹くのかと思うと、そうではなく、単調な、物悲しい、尻上りになって内へ引込む連音を吹いて、
「次は中雀《ちゅうじゃく》」
これもほぼ同じような、単調な連音。
「今度は黄足《きあし》ですよ」
これは、以前のよりは、ズッと音が高くて強い、けれども、やはり特別の節調があるというわけではなく、誰が聞いてもヒューエヒューエと続けさまに鳴るだけのものです。
音はそれだけのものですが、不思議なことには、この笛が鳴りはじめてから、海上が少しずつ物騒がしくなってきました。前の大雀というのを吹き終った頃に、墓石の上あたりを低く、いくつもの小鳥が群がって来ました。
中雀を吹き出してから、それが一層多くなって、ほとほと、茂太郎と、兵部の娘の身辺にまで、まつわるかのように見えましたが、黄足というのを吹いた時分には、あるものは茂太郎の肩の上まで来てとまろうとしました。
「茂ちゃん、もう、およし、ホラ、こんなに鳥が集まって来たわ」
「みんな千鳥なのよ」
ここに於て知る、つまり、千鳥の笛といったのは、風流千鳥の曲というようなものではなく、千鳥の啼《な》く音そのものを模していたのです。それが真に迫ったから、かれらの夜のねぐらを驚かして、海上を物騒がしいものにし、そうして、ここまでおびき寄せられて来たものに相違ない。これは茂太郎の技術として、今にはじまったことではないのだが、せっかく呼び寄せられた小動物は、火事もないのに半鐘を打たれたような気持で、まだ火元と覚しいところを離れきれないで騒いでいるらしいのを、兵部の娘が気の毒に思ったのでしょう。
「折角、呼び集めて、何かやらなくちゃかわいそうだわ」
しかし、ここには何も彼等に与うべきものがない。
「峰島の爺さんが言うには、千鳥は、あれで三十幾通りかあるんだって。その三十幾通りあるのが、みんな啼く音が違っていると言いますが、あたしには、そのうちの半分しか吹けやしない。習えば吹けるでしょうけれど、習おうとは思わないの。峰島の爺さんは、その三十幾通りをみんな吹きわけるには吹きわけるけれど、あれは罪なのよ」
「罪とは?」
「だって、あの爺さんは、千鳥の笛を吹いて、千鳥を呼び寄せて、それをみんな網でとってしまうんですからね」
「そんなに千鳥をつかまえて、どうするの」
「食べてしまうんでしょう、自分で食べるだけじゃなく、売りに出すのでしょう」
「千鳥の肉なんて、食べられるか知ら」
「食べられますとも。爺さんの話では、田鴫《たしぎ》よりは少し味が劣《おと》るけれど、あの鳥は丈夫な鳥だから、それにあやかりたいために、あれを食べると丈夫になるって、千鳥を食べるんですとさ」
「そうか知ら。千鳥の肉を食べると丈夫になるなんて、はじめて聞いた」
「でも、鳩や、雉《きじ》なんぞは、土用中、おとり[#「おとり」に傍点]にして一時間も置くと死んでしまうけれど、千鳥だけは、土用中でも、寒《かん》のうちでも、何時間おいてもビクともしないそうです――しかし、わたしたちはこの鳥を呼び集めたって、それを捕って食おうというのじゃなく、友達として呼び迎えるのだから、罪にはならないさ」
兵部の娘と、茂太郎が、浜辺へ向って歩き出すと、千鳥は、その前後左右を落花飛葉のように飛びめぐって送ります。
十七
駒井甚三郎と、田山白雲とは、種《しゅ》の問題にまで会話が進んだ時に、金椎《キンツイ》のために腰を折られました。
しかし、駒井は「種」ということには相当の見識は持っているらしい。今までの会話では、田山の方がむしろ現実的で、駒井が有史以前の動物にまで想像を逞《たくま》しうしたようですけれど、駒井が、ああ言うからには、何か相当の科学的――といわないまでも、新しい知識に刺戟されたには相違ありますまい。
ただ惜しいところで、話の腰を折られてしまいました。
そうかといって、リンネよりキウエーにいたる種の不変の説を、この時代の駒井が、どれほど理解していたかは疑問です。いわんや、金椎によって、ようやくこのごろキリスト教の眼をあけられた駒井が、生物進化論にまで飛躍しているとは、全く想像し難いことであります。ダーウィンが「種の起源」の初版を出したのは、ここに駒井がこうしている数年前のことではありましたけれど、いかに新知識でも、当時の日本人としては、それを受入れるにはあまりに早過ぎます。しかし、早過ぎるからといって、当時、出来ていた「種の起源」の新説が、何かの機会で、たとえば、鉄砲の包紙の一片か何かにはさまって来て、偶然に、駒井の眼に触れないとも限りますまい。
しかし、この場の事実は、如上の進化論の途中に、突変説が起りました。
話の進化に突変をまき起したのがすなわち金椎であります。それをまき起させた「種」は、清澄の茂太郎と、兵部の娘とであること勿論です。
二人の者が行方不明《ゆくえふめい》になって、今以て帰らないということが、物に動ぜぬ金椎を、安からぬ色に導いているということによって、二人も、これは打捨てて置けないと立ち上りました。
「あの連中ときては、常軌《じょうき》にあてはまらないのだから始末にゆかぬ、即興的の感情を、即興的の行動に現わして、節制の術《すべ》を知らないんだからたまらない、全く眼がはなせたものではない」
と田山白雲が、柄《がら》になく嘆息しました。全く柄にないことで、そういえば御当人自身としても、御多分には洩れないところがあるはずです。
「怪我はあるまいけれども、放っても置けまい」
と駒井も、多少の不安を感じないわけにはゆかないらしい。ただいまの海竜といい、この辺の海の悪戯《いたずら》には、再再経験もあることだ。
金椎《キンツイ》は同じような不安から、窓の外の海をし
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