く呆《あき》れ返ってしまいました。
その有様は、猫こそ軽蔑すべき動物だ! とさげすみの色に見送る体《てい》です。
事実、茂太郎は、猛獣毒蛇にも及ぼす魅力を信じているのですから、いかなる禽獣《きんじゅう》ともお友達づきあいができるものと、保証をしているのに、ただ一つ、度し難い動物に猫がある。あらゆる動物のうちに、猫だけがいけない。あいつに表情がない、愛嬌《あいきょう》が無い、おだてが利《き》かない、感激が無い――芸術がまるっきりわからない。猜疑《さいぎ》のくせに柔媚《にゅうび》がある。犬は三日養わるれば忘れないが、猫は三年養われても三日で忘れる。
鶏は餌をその友に頒《わか》つことを知っているが、猫に物を与えて見給え、何物をおしのけてもあがき食わんとする。時としては自分の産んだ児をすら、むしゃむしゃ[#「むしゃむしゃ」に傍点]と食ってしまう。
猫の可愛ゆいのは子供の間だけのものだ。その成猫した横着な、取りすました、そのくせ怯懦《きょうだ》にして、安逸を好み、日当りとこたつ[#「こたつ」に傍点]だけになじみたがる――そうして最後には、ただ化けて来ることだけを知っている。あんな動物に芸術がわかってたまるものか。
そこへ行くと鼠の方がどのくらい可愛ゆいか知れやしない。気の毒そうに、おどおどして人間の物を荒しに来るあのいじらしさ。あの眼つきをごらん、鼠のいたずらを歯がみをして憎がるものでも、あの眼を見た日には、誰も可愛がらずにはいられまい。
しかし図々しい奴はどこまでも図々しく、箸にも、棒にも、かからない奴は、どうも仕方がないもので、さしもの茂太郎の心の中で、これほどの憎しみと、軽蔑を受けながら、いったん、姿を隠したと思った猫が、ぬけぬけと茂太郎の前へ姿をあらわして来て、例の柔媚な、むずむずとした形で、主人の鼻息をうかがいながら、火の傍へ近より、とうとう、そこに、いい心持でうずくまってしまいました。
見れば猫のうちでも、最もたちの悪い老猫《ろうびょう》だ。
「ははあ、それでは猫、お前にも、わたしの芸術がわかるかい」
茂太郎はその図々しさに呆《あき》れ返って、さてまた、寥亮《りょうりょう》として、清にして且つ悲なる蘆管《ろかん》を取って、海風に向って思う存分に吹きすさびました。
猫は眼をつぶって、それを聞いている。彼の芸術に心酔するようなふりを見せて、その実、たんまりと、焚火の温《ぬく》まりを貪《むさぼ》っている狡猾《こうかつ》なる策略。
だが、すべてのものは、そう不信を頭において、見くびりを鼻の先へぶらさげてかかった日にはたまらない、せっかくの有縁《うえん》のものをも、無縁の里へ追いやってしまう。
狗児《くじ》にも仏性《ぶっしょう》ありというのだから、老猫も一切衆生《いっさいしゅじょう》の中の一物ではある。
その証拠には、さしも柔媚《にゅうび》にして狡猾な老猫も、少し首を振り出して来たようだ。蘆管の音律につれて、その首が左右に軽くゆれ出して来たようです。
では、おどり出すかな。この分で行くと、この度し難い動物も、他の度し易《やす》い悪獣毒蛇と同じように、茂太郎の動かすリズムにつれて動かされ、おしゃます踊りの手をでも、不思議な態《てい》で見せてくれるかも知れない。
この面白い首振りのところで、茂太郎が、ふっと蘆管の吹奏《すいそう》をやめてしまったのは惜しいことです。
笛をやめた茂太郎は、耳をすまして黍畑《きびばたけ》のかなたを見つめました。
十四
「茂ちゃん、もういいからお帰りよ」
これより先、遠見の番所をさまよい出した岡本兵部の娘。
暗いところの砂浜を西に向って、茂太郎が走り出した通りの道を、さまよい歩きながら、
「お帰りってば」
この娘は、茂太郎が竜燈《りゅうとう》の松にのぼって歌をうたい、それから西に向って走り出した最初の時から見ていて、追わなかった娘であります。
晩餐《ばんさん》の時、金椎《キンツイ》が大きな不安の色を以て、筆談で念を押した時も、あの子に限って大丈夫よ、と信任を置いて打消した娘であるのに、今になって、その名を呼びながら、帰れ帰れと、さまよい出したのは、何かしら不安に襲《おそ》われて、堪え難かったからであろうと思います。
陸も、海も、暗く、層々と押寄せて来る波がしらだけの白いのが見えます。
両袖を胸に合わせて、すっきりした体を両足に載《の》せ、爪先立って早足に砂浜を走りながら、岡本兵部の娘は、
「ホ、ホ、ホ、ホ……」
と、何か淋しそうな思出し笑いをして、
「おかしいじゃありませんか、昨日《きのう》、漁師たちが造船所で話をしているのを、そっと聞いていると、わたしのことを、あれは駒井の殿様のお妾《めかけ》じゃないか知ら、きっとそうに違いない、なんて、まじめで噂《うわさ》をしているんですもの」
そう言って振返って、遠見の番所にかがやく火の光を暫くながめながら、足はやはり茂太郎の行った方向に、休まず歩みつづけられている。
「いやだねえ……お妾だなんて。何も関係はありゃしないのよ。ですけれど、有ったところでどうなの……有っちゃ悪いの?」
思出し笑いに、凄味《すごみ》というようなものが加わって、その眼の中にいっぱいの媚《こび》が流れる。
「何といっても、あの方は美《い》い男ね、あんな美い男は、ちょっとありませんね。それに比べると田山白雲先生は美い男とはいえないわ。美い男とはいえないけれど、醜男《ぶおとこ》というんじゃないのよ、あれは男らしい男よ――ウスノロなんていやな毛唐だけれど、それでも、素直にあやまって来るとは可愛らしいところがあるじゃないの」
兵部の娘は、たったいま、出て来た家の、変った家庭味の間にいる人たちのことを回想しながら、さっくさっくと足は砂場を走りながら、
「茂ちゃん――」
前途に向って、かなり大きな声を出して叫んでみましたが、相変らず何の返事もありません。
「ほんとに、あの子は、こんなに世話を焼かせる子じゃないはずなのに」
こう言って心配しているうちに、急に面《おもて》の色がくもってきて、
「もしかして、あの子はまた人にさらわれて、人気者にされるんじゃないか知ら、そうだと本当にかわいそうだ」
こちらへ来て対面の後、話のついでには茂太郎は、いかに人気者という商売が、いやな商売だかということを、兵部の娘に語って聞かせたものです。後ろにいる奴が薄っぺらで、高慢で、雷同で、阿附《あふ》で、そうして、人と、物とを、食い物にすることのほかには何も考えない。ところで、人気者同士には、また人気者同士で、競争があるのだからやりきれない。好んでそのイヤな人気者になりたがって、給金がよけい取れるとか、人にチヤホヤされるとかいって納まり返り、またその納まり返った人気を、他《はた》から奪われまいとして血眼《ちまなこ》になっている。おそらくこの世に、興行師のために、人気者として祭り上げらるるほど悲惨なものはあるまいと、山海の自由に生い立った自然の子が、身を以て痛感しているらしいのを、兵部の娘も全くそれに同情しているものですから、今、そのことを考えると、急に心が暗くなりました。
しかし、安心したことには、薄明りの海の光で見ると、砂浜に人の足あとがあります。その形によって見れば、まごう方なき子供の足あとであります。
砂に足あとを認めたものですから、兵部の娘は、その足あとをたよりに、例の爪先走りで、砂浜を一散に走りました。
あるところは、波に洗われて、その足あとが消えているのを、ようやく探し当てて、ともかくも、その足あとの存する限り、走りつづけてみるの勇気を得たようです。
しかし、行けども、行けども、十里の平沙《へいさ》で、一方は海の波の音ばかり――暫くして、ようやく一つの人影を認めました。
その人影の、こっちに向いて走って来るのを認めたのも、いくらも経たない後のことでありましたが、不幸にして、その人影は、どう見直しても、自分の尋ね求める少年の姿ではありません。
だが、自分の走って行くと反対に、向うはこっちを向いて一生懸命に走って来るのが、ちょうど、鏡面に向って相うつしているようなもので、かくしてようやく相近づいた時は、その一方も女であることを知りました。
女は女だが、自分とはまるきり違った体格と風俗の女で、それはこの辺によく見るところの海女《あま》の一人であることに疑いもない。
裸で走って来るらしいことを認め得た時に、そう感づきました。
海岸を海女が走って来る分には、別に怪しいこともないが、いよいよ近づくにつれて、その狼狽《ろうばい》の態度が尋常ではない。何かに怖れて、あわてふためいて、走って来るのではない、逃げて来るのだとさとらないわけにはゆきません。
いよいよ、その証拠には、この海女は一糸もつけない素裸《すっぱだか》で、その着物類をさんざんに取りまとめて、小脇にかいこんで、眉《まゆ》をつり上げ、息をせき切って、せいせい言いながら、はたと自分に突き当りそうになって、はじめて気のついた海女を、兵部の娘がすれちがって見ると、海女が息づかいもせわしく、
「いけないよ、いけないよ、姉《ねえ》や、そっちへ行っちゃいけないよ」
海女は、兵部の娘の前に立ちふさがるようにして、小手を振りました。
「どうして」
「どうしてたって、お前様……」
海女は年の頃三十よりは若いでしょう。見得《みえ》も、外聞も、すっかり忘れて、
「お前様、これより先へ行ってはいけませんよ、わたしと一緒に引返しなさい、早く、早く」
「どうしてなの……」
「海竜《うみりゅう》が出たよ、海竜が……」
「海竜……」
「ああ、海竜があの塔婆《とうば》の浜のところへ出たよ、こんな角《つの》を二本|生《は》やしたのが」
海女《あま》は後ろの方を指さした手を、あわただしく自分の額《ひたい》の上にかざして見せました。
「海竜って、何なの」
「海の中にいる魔物さ、海の中にすんでいるおろち[#「おろち」に傍点]のことだよ」
「だって、何も見えないじゃないの」
「海ん中にいるから見えないけれど、底をくぐってどこへ出るか知れやしない、そこんとこらあたりへ角を出すかも知れないから、早くお逃げなさい、一緒に」
「何かの間違いじゃないの……」
「間違いどころか、たしかに見たんだよ、こんな角を二本生やした恐ろしい海竜」
海女は二度まで、指を額の上にあてがって、その形をして見せ、しきりに自分の恐怖を、相手方に移そうとつとめるらしいが、兵部の娘にはいっこう利《き》き目《め》がなく、
「それよりか、お前さん、この浜で十歳《とお》ぐらいになる男の子を一人見なくって、清澄の茂太郎といって、可愛らしい子なのよ、そうして歌をうたうのが上手な子供」
「知らねえ、そんな子供を見るどころの話か」
海竜の恐怖で唇をふるわせるだけで、こうしていることさえが不安でたまらないらしく、兵部の娘にもその恐怖を移して、警戒を試みようとするのを、兵部の娘は落着き払って、
「あら、ここに足あとがあるわ」
すり抜けて先へすすみました。
十五
それとは知らず、駒井甚三郎と田山白雲とは、食堂の卓子《テーブル》を中にはさんで、しきりに会話の興が乗っておりました。
マドロス氏はいかにと見れば、室の一隅の横椅子に背をもたせかけて、いびき[#「いびき」に傍点]を立て、仮睡《うたたね》しているところはたあいないものです。
駒井と、田山との会話が、しきりにはずむといううちにも、ほとんど駒井の諄々《じゅんじゅん》たる説明を、田山が頻《しき》りにうなずきながら聴取しているといった方がよいでしょう。
駒井の語るところは、海に関する物語でありました。海に関する物語につれて、当然、船と、魚とのことに進んでいるようです。
「そういうわけで、北緯五十度というところが日本の国境なんですが、それは寒い、冬になると氷と雪とが全く道をうずめて、人馬の往来はなり難いのです。しかし、この地球の上でです、一般にその通り、北緯五十度あたりは寒くて、ほ
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