感情のために、お雪ちゃんが泣きました。
子を持った親でなければわからない感情のために、子を持たぬお雪ちゃんが泣くくらいだから、少なくとも子を持って、人の親として経験を経てまでいる竜之助はいかに。
単に小娘の口ずさむ浄瑠璃《じょうるり》のさわり[#「さわり」に傍点]の一ふしぐらいに、やすやすと涙を流すほどの男ならば、文句はあるまいに、それが、どうしたものか、横をむいてしまいました。
もし、彼の見えないところの眼底に、この時、一点の涙があるならば、それは春秋の筆法で慶応三年秋八月、近松門左衛門、机竜之助を泣かしむ……というようなことになるのだが、泣いているのだか、あざけっているのだか、わかったものではない。
お雪ちゃんは、何が悲しいのか泣いている。竜之助は何ともいわないで、横を向いたまま静かにしている。
そうして、しめやかな沈黙がかなり長くつづいた時分に、以前の柳の間の廊下の方で、
「お雪ちゃん、お雪ちゃん」
と呼びながら廊下を渡って来る人。そこにいないものだから、たしかにここと、バタバタと草履《ぞうり》を引きずりながら、
「お雪ちゃん、こちらにおいででしたね、ちょっと」
「久助
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