の菖蒲《あやめ》の間《ま》あたりでしょう。そこで、
「デーン」
と張りきれるような三味線の音がしました。眼の働きを失って、しかして、耳の感覚が敏感になったというのみではなく、こんな静かなところで、思い設けぬ音《ね》を聞かされた時は、誰だって耳をそばだてます。
いわんや、それが引きつづいてかなりの手だれ[#「手だれ」に傍点]な調子で、デンデンデンデンと引きほごされてゆくと、机竜之助の空想もその中に引込まれて、
「珍しいなア、太棹《ふとざお》をやっている」
全く珍しいことです。日本アルプスの麓《ふもと》の、ほとんど人音《ひとおと》絶えた雪の中で、よし温泉場とはいいながら、不意に太棹の音を聞かせようなんぞとは、心憎いいたずらには相違ない。
といって、必ずしも、それは妖怪変化《ようかいへんげ》の為す業《わざ》でもあるまい。何といっても温泉場は温泉場である。宿の主《あるじ》が気がきいて備えて置いたか、或いはお客のある者が置残して行ったのを、いい無聊《ぶりょう》の慰めにかつぎ出して、手ずさみを試むる数寄者《すきもの》が、この頃の、不意の、雑多の、えたいの知れぬ白骨の冬籠《ふゆごも》り連《れん
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