秀吉笑いて、他の一つは余が匹夫より起りて天下の主となること不思議ではないか、もう一つは太田三楽ほどの知恵が廻りながら、まだ一国も持てないこと、これ不思議ではないか――一座その言葉になるほどと感心をしました」
お角はスラスラと聞いていたが、やっぱりこれは生え抜きの講釈師ではないと思いました。そうしてどこかで見たことのあるさむらいだと思いました。
この旅の講釈師が素人《しろうと》であろうとも、素人に毛の生えたものであろうとも、それはお角のかまったことではないが――どうも、さいぜんから少し気になるのは、お角よりも少し後《おく》れてやって来た一人の男が、お角と並んだところに席をとり、そうして、いやにニヤニヤと脂下《やにさが》りながら、高座の講釈師の面《かお》をながめていることです。
お角がよそ目で見ると、この男は講釈を聞きに来たのではなく、講釈師の面を見に来たもののようであります。
それもただ見に来たのではなく、いやに皮肉に、そうかといって別に弥次を飛ばすでもなく、ニヤリニヤリと見ている様子が変です。
変なのは、そればかりでなく、この男がまた、百姓とも町人ともつかず、人品を見ると武士階級に属しているようなところもあるし、そうかといって両刀は帯びていないが、道中差は一本用意している。
寄席《よせ》へ来るに道中差を用意するほどのこともなかろうが、なお左の膝の下に合羽《かっぱ》を丸めているところを見ると、たしかに旅の者だ。旅の通りがけに、この席へ立寄ってみる気になったもので、いったん旅籠《はたご》へ着いて出直したものではない。それにしても、何であんなにニヤニヤ笑いながらやに[#「やに」に傍点]さがって、講釈師の面ばかり見ているのだろう。べつだんイヤ味があるではないから、イヤな奴とは思わないが、変な男だと見るには充分です。
そのうちに一席が済んで、つまりこの講釈師は、長講二席のうちの前講一席が済んで、暫く高座が空虚になった時分、変な男が、チラリと横を向いて、お角に話しかけて来ました、
「南洋軒力水なんて講釈師が江戸にありましたかねえ」
「聞きませんねえ」
お角は透《す》かさず応答しました。
「わたしも、あんまり聞きませんが、旨《うま》いには旨いですね」
「気取らないところがようござんすよ」
「そうです、あいつは素人《しろうと》ですね」
「あなたは、どちらから、いらっしゃいましたか」
「わっしですか、わっしは常陸《ひたち》の水戸在のものでございますよ」
「上方《かみがた》へおいでなさるんですか」
「ええ、上方の方へ出かけて、帰り道なんでございますよ」
「講釈がお好きですか」
「嫌いでもありません、まあ、英雄豪傑の話や、忠臣義士の事柄を聞いていると、見て来たような嘘と思いながら、悪い気持はしませんですよ」
「あなたの御商売は何ですか」
これは随分ぶしつけな問い方でしたけれども、お角はこういって突込んでしまいました。つまりお角としては、大抵の人品は見当もつき、判断もつくのですけれど、この男はどうも判断のつき兼ねるところがあったと見え、そのもどかしさから、一息に、無遠慮に、突込んでみたものでしょう。そうすると、その男は笑いながら、
「何と見えますか。わかりますまい、さすがのお前さん方にも、わっしの見当はつきますまいね」
「つきませんね、おっしゃってみて下さい」
「言ってみましょうか」
「どうぞ」
「その以前に、あなたの名を言ってみましょうか――お前さんは、江戸の両国の女軽業の太夫元、お角さんていうんでしょう」
「おや」
「驚いちゃいけません、よく知っているんですよ、裏宿《うらじゅく》の七兵衛から聞いてね」
「七兵衛さんから?」
「ええ、七兵衛につれられて行って、お前さんの小屋も見ているし、お面《かお》もよそながら拝んでいる、私は水戸の山崎、山崎譲ってたずねれば、七兵衛がよく知っていますよ」
お角がすっかりけむにまかれてしまっている時に、第二席、長講の御簾《みす》があがる。
御簾が上って、以前の南洋軒力水先生が再び現われて長講をつづけるかと思うと、そうではなく、みすぼらしい盲人が一人、三味線を抱えて、高座へ現われ、これから説教浄瑠璃の一段を語り聞かすとのことです。
そこで山崎譲は一笑して、帰ろうとしますから、お角もこれ以上、観察する必要もないと考えて、同じように席を立ちました。しかし一般のお客には、前の講釈よりも、この説教節がききものであると見えて、一人も座を立つものがありません。
お角は、山崎譲という旅人と連れ立って宿まで帰る途中、
「は、は、は、あれは素人《しろうと》も素人、南条力といって九州あたりの浪人者ですよ、とっつかまえるとことが面倒だから、茶々を入れて、邪魔をして、けむにまいて追払うだけが、われわれの仕事というもの
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