を誦し終った時に、弁信の頭上のけやきの枝と葉がサラサラと鳴って、そこから人が下りて来ました。
まさしく人の形には形をしています。真黒な裸形《らぎょう》で、眼も、鼻も、口も、少しもわかりませんが、弁信の頭の上から下りて、すたすたと火の海を渡って、髑髏の方へ行こうとしますから、弁信が、
「あなたは、どなたですか」
と尋ねますと、
「はい、私は幸内《こうない》と申します」
と答えたままスラスラと火の海を渡って、あの二人のどくろの前へ近づくと、おどり狂うように、その前にひざまずいて、やがて二つのどくろをかわるがわる両手に捧げて、立ちつ、居つ、おどっているのを弁信が、見えぬ眼でまざまざと見ました。
「是生滅法《ぜしょうめっぽう》、生滅滅已《しょうめつめつい》」
と弁信は合掌してから、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と限りなく、念仏の声が口をついて出でました。
三十三
その火事があって幾日かの後のことでありました。恵林寺《えりんじ》の慢心和尚が、途轍《とてつ》もない大きな卒塔婆《そとば》をかつぎ込んで、従者を一人もつれずに西の方へスタスタと歩いて行くのが、白日《はくじつ》のことですから、すべての人が注目しないわけにはゆきません。
「恵林寺の大和尚が、素敵もなく大きな卒塔婆をかつぎ込んで、西の方へ向いていらっしゃるが、どこへおいでなさるのだろう」
「左様さ、どこぞの供養か、施餓鬼《せがき》へでもおいでなさるのだろうさ」
「どうです、ごらんなさい、あの大きな卒塔婆を……何丈ありますかねえ、木とは言いながら、あれだけのものは、へたな牛でもにない[#「にない」に傍点]きれますまいね」
「御尤《ごもっと》もです、和尚の力量こそ測るべからざるものです、大和尚なればこそ、あれがああしてかついで歩けるんでございますな」
「ほんとうです、あの大和尚さまの力はわかりません」
「どうです、あの卒塔婆に書いてある文句がわかりますか」
「わかりませんね」
「字が読めますか」
霞《かすみ》を隔《へだ》てたように透《すか》して見て、
「読めません――変てこな字ですねえ、あんな字は日本の国にはないでしょう」
「悉曇《しったん》の文字というのが、多分あれなんだろうと思います」
「こちらの方の頭には漢字で弥帝※[#「口+利」、第3水準1−15−4]夜と書いてあるようですが、あれは何と読みますか」
「あれはみちりや[#「みちりや」に傍点]と読みます」
「どういう訳《わけ》ですか」
「さあ――それはわかりませんねえ」
「ひとつ、大和尚に伺ってみましょうか」
「およしなさい、芸もないから」
そんなことをいって、慢心和尚の通る沿道の人が、それを評判しないのはありません。それはこの甲斐の国で、おそらく慢心和尚を知らない人はないのでしょう。それは名刹《めいさつ》恵林寺の大和尚として、学徳並びなしという意味において知っているのではなく、そのブン廻しで描いたような真円《まんまる》い顔と、夜具の袖口を二つ合わせたような大きな口と、釣鐘をかけ外《はず》しをして平気で持って歩くという力量と、愚の如く、賢の如く、凡の如く、聖の如く、そこらを押歩く行動と、その形相《ぎょうそう》に似気なくオホホホホホホと笑う口元に、無限の愛嬌《あいきょう》がたたえられているのと、それらの点によって、名物の意味においての珍重から、何人もこの和尚の印象をはなすことができないのでありましょう。
それで、今も、和尚を見送りながら、何人《なんぴと》も舌をまいて、まず感心しているのはその大力量です。大力量といっても、ここでは超凡越聖《ちょうぼんおっしょう》といったような力量ぶりではありません、眼前、目に見える力量であります。
それは今言う通り、牛もひきわずらうほどの大材木を軽々と肩にかけて、さっさと歩む超人間の力量に、ほとほと舌をまいて、またあいた口がふさがらないのです。つまり牛馬以上の力量に、衆人は驚嘆しているのであります。
群衆が呆《あき》れているのを見かけて、慢心和尚がこう言いました、
「伊太夫のところに不幸があって、わしに供養をしろというから、これをかつぎ込むのだ、みんな見に来たい奴は見に来い、伊太夫のところでは六月の一日に、先祖以来たくわえた金銀財宝を残らず取り出して、欲しいというほどのものに施《ほどこ》しをするそうだ、行ってみたい奴は、おれと一緒について来い」
こういって慢心和尚は、右の肩で卒塔婆を負いながら、左の片手の拳《こぶし》を高く空中につき上げたから、何をするかと見れば、その絶世の巨口をパクッと開いて、児頭大の拳をポカリとその口中へ入れて見せました。かねて噂《うわさ》には聞いていたけれど、これほど大きな口だとは、何人も思いおよびません。
底本:「大菩薩峠1
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