ちのゴシップを聞いてごらんなさい。大体こんなようなことを言っているのです。
この火事の前、お銀様が烈しく怒っていた。それは何の因縁《いんねん》だかわからなかったが、今晩の怒り方は、いつもよりもいっそう烈しかったということである。
そこへ、例の弟の三郎が入って来た。実は三郎が来たためにお銀様が、そんなに怒り出したのかも知れない。その前後のことはわからないが、とにかく、三郎様も火のように泣き出した。そうすると、奥様が――つまり三郎様には実の母親、お銀様には継母であるところの――奥様が今日はまたそれについて、烈しい御立腹のようであった。
火事! といった時、火の廻りの早かったこと。それは油か、煙硝《えんしょう》かの助けがなければ、到底こんなに早く火が廻るはずがないと思われたほど早かったと、その場に居合わせたもののように言う者さえある。
その結果、ついに、つい今まで三人の方の行方不明《ゆくえふめい》となったので、弁信だけはつけたりになっている。
これらのゴシップは、日頃が日頃だけに、だれの頭にも、多大の疑惑を植えつけぬということはない。
親子兄弟の間が棟を別にして、絶えて往来をしないという家風――そこからだれの頭にも、この事変に関聯して、怖ろしい想像が湧かないということはないが、物蔭のゴシップにしても、そこまでは口にのぼせていう者がない。
この時分、お銀様はもう、ずっと離れた文庫蔵の二階へ来て、屏風《びょうぶ》の中へ身をうずめてしまいました。哀れなる弁信は、かねて、自分の居間と定められた、お銀様の家の一部を焼かれてしまったものですから、身を置くところがありません。肝腎《かんじん》のお銀様がそれを忘れて、かまわないでいるくらいですから、誰とて弁信のために手引をして、新しい座敷を与えてやろうという者がありません。
ぜひなく、欅《けやき》の大樹の下に莚《むしろ》をしいて坐り込みました。
けやきの大樹の下に座を構えていた弁信は、今、眼前に大きな火の海を見ました。
大火がおおよそしずまった時分になって、はじめて弁信は、その見えぬ眼前に、広大なる火の海を見ました。
火焔何十里にひろがる火の海を見ましたが、弁信の見た火の海は熱くありません。色は赤く、紅蓮《ぐれん》のように金色《こんじき》を帯びてかがやき渡りますけれど、その火は熱くありませんでした。それは紅蓮と、金色とを流動して見せる、かぎりなき池でありました。
そこから立ちのぼる一味清涼の風光。それを弁信はまのあたり見ていると、その紅蓮の池の真中に、二つの人の姿の裸形《らぎょう》なのが現われるのを見ました。その一つは、母と覚しい年配の女の姿で、他の一つは、まだ十歳にはなるまいと思われる男の子の姿であります。
母子二人は、その紅蓮の池の中を楽しげに歩いていました。広大なる火焔の池の中を、自家の庭園を歩むもののように歩んでいたが、ある一点へ来ると、二人は急にそこにとどまって、相抱いて地に伏してしまいました。それは無論苦しむために地上に伏したのではなく、春の野に、もえ出したつくし[#「つくし」に傍点]を、母が子のために摘《つ》み取ってやるような気分で、地にうっ伏したものと見えるが、不思議なことには、一旦うっぷしてしまって後に、再び頭を上げることがありませんでした。さいぜんはあれほど楽しげに歩いていたものが、ここに来《きた》って、どうしても地上から起き上らないのは、なにゆえでしょう。
弁信は、それをも不思議だと思いました。その時に火焔の海が、何十里というもの、おおゆれにゆれ渡ると、伏していた母子の姿が見えなくなりました。
その途端のこと――その火焔の海の上に二つの髑髏《どくろ》が現われました。それはまさしくさいぜん、地にうっぷした母子の姿の見えなくなった地点であります。
真紅の広海の上に置かれた純白な二つの髑髏――それを弁信だけが、まざまざと見ました。
そこで弁信は思わず合掌《がっしょう》して、
「推落大火坑、念彼観音力《ねんぴかんのんりき》、火坑|変成池《へんじょうち》……」
と念じました。
そうすると、二つの髑髏もグルリと弁信の方へ向き直って、そのうつろな四つの眼を合わせて、弁信の方を見つめ出しました。そこで弁信はいやおうなく、
「或漂流巨海《わくひょうるこかい》、竜魚諸鬼難、念彼観音力……」
とつづけますと、髑髏が喜びました。そのうつろな眼を以てしきりに、もっともっととせがむような気がしますものですから、そこで弁信は容《かたち》を改めて、妙法蓮華経観世音菩薩|普門品《ふもんぼん》第二十五を、最初から高らかに誦《ず》しはじめました。
経を誦して半ばに至らざる時に、髑髏のうつろなる眼から、ハラハラと涙のこぼれるのを、弁信法師は確かに見ました。
いよいよ普門品一巻
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