のいうことを取合いませんでした。
火は盛んに燃えて、集まるほどの者が、それを消すべく懸命の努力を試みているのをよそに、弁信法師も、お銀様も、小高いところに坐り込んだまま動こうとはしません。
一方、馬のいななきが盛んに聞えるのは、火を消すことに努力するものの一方には、馬のはやるのをしずめることの努力が想像されます。火を見てはやる馬は、暗い方へは逃げずして、明るい方へ進みたがることは、火取虫と同じです。そうして、その明るい方の危険なることを知らざることも、また、火取虫と同じです。
常の世にあっては、光明《こうみょう》を求めて進むのを習いとするが、非常の時、火事の時は、必ずや暗い方へ逃げなければなりません。お銀様もそれを知り過ぎたために、逃げ過ぎました。しかし、はやり過ぎる馬の方も、どうやら押えが届いたようです。
火は頂上を過ぎました。棟《むね》も完全に焼け落ちてしまいました。ほのお[#「ほのお」に傍点]は相変らず天を焦《こ》がすといえども、要するに余燼《よじん》に過ぎません。
だが、こちらの方、二人は例の小高いところに腰を卸したまま、動き出そうとしないのは変りません。どちらが先に、地面に腰をおろしたとは知りませんが、ほとんど申し合わせたように、地上に坐り込んで動かないところは、動かないのではなく、動けないのかも知れません。さりとてこの二人は、非常の大変に驚愕狼狽《きょうがくろうばい》の余り、泰然《たいぜん》として腰を抜かしてしまったのでないことは、先刻からの対話でもわかります。
こうして、坐っているところへ、大火のほのお[#「ほのお」に傍点]の光線が反射して来ました。夕暮の空に金色《こんじき》の征矢《そや》のさすように、二人は、その火光を前面に浴びました。光を浴びたところの半面はえび[#「えび」に傍点]のように赤いけれども、その後ろは鯰《なまず》の如く真黒であります。
弁信は、もはやしゃべり[#「しゃべり」に傍点]ません。しゃべらないで、両膝を二つの手で抱えて、首をその中へうなだれています。火の方には向いていますけれども、最初から火を見ているのでないことは勿論《もちろん》です。お銀様は最初から火を見ているのです。立っている時もそうでした。話をしている時もそうでした。坐り込んでから後も、やはり火の消長を、ちっとも放すことなく注視しておりました……この時分に至って、その火を睨《にら》んでいるお銀様の眼から、ハラハラと涙のほとばしるのを認めました。
弁信は少しも昂奮してはおりません。膝を抱いて、うれわしげにうつむいてはいるが、決して泣いているのではありません。
峠を過ぎれば、どうしても下り坂です。いかに大家でも、棟が落ちた以上は、下火になるばかりであります。おそらく朝になっても、余燼《よじん》の勢いは変るまいが、火の勢いとしては、目立たぬほどずつ衰勢に赴くのは争われません。
おお、おお、鶏《とり》が啼《な》いている、何番鶏か知らん。
はやりきった馬はまだ血気が下りきるまいが、鶏は平和だ。いかに業火《ごうか》のちまたでも、修羅の戦場でも、その間から鶏が聞え出せば占めたものだ。鶏の声は、暁と、平和のほかには響かない。
しかるにこの二人はまだ、歩き出そうということを言いません。立ち上ろうとする気色《けしき》も見えません。お銀様がそれを言わなければ、弁信がそれを促さなければならないはずなのに。弁信が立てば、お銀様もいやとは言うまいに。二人とも、どちらが、どうということがありません。弁信は相変らずうつむいて、膝を抱いた上へ自分の首を埋めるばかりにうなだれ、お銀様は穴のあくほどに火の色を見つめているが、最初のあの瞬間にほとばしり出した涙も、今になっては、すっかり乾いてしまって、冷笑気分が豊かです。ただ夕陽のような火の色だけが、二人の坐像を、紅と黒とにかっきりと描き出していることは、以前と少しも変りません。
しかし、本来ここに作りつけてあったわけではなく、尻から根が生えたわけでもありませんから、早晩は動き出さなければならぬ運命にあるものです。
どちらが先ということなく身を起すと、二人の影法師が原っぱの上に、火災の余光を浴びて、影を引いて動き出しました。
ようやくにして被害地のところまで来て見ると、それは申すまでもなく戦場同様の有様であります。消防に出陣した人のすべては、まだ一人も退却したものがないようです。
何事でしょう、火はもう鎮《しず》まったのに、人の面色《かおいろ》にまだ険悪の色が消え失せないのは。
険悪ではない、不安の憂色です。憂えの色が、火の光と、働きの疲労に彩《いろど》られて、それで険悪に見ゆるのでした。
しかし、険悪にせよ、不安にせよ、漲《みなぎ》り溢《あふ》れている人々の面《かお》の憂色は、拭うこと
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