らいだから、頭に残っている由がありません。
ただ、ここで思い起すのは、父が尺八の師であった青梅|鈴法寺《れいほうじ》の高橋空山が、ふと門附《かどづけ》に来て吹いた「竹調べ」が、ついにわが父をして短笛《たんてき》というものに、浮身をやつすほどのあこがれを持たしめてしまったことです。
ここにヅグリという手があって、これはなかなかやかましい。これがうまく出来なければ虚無僧《こむそう》ではない……といったのはそれ。自分は虚無僧になるつもりはない、父も虚無僧にするつもりで教え込んだのではないが、この手が妙味で、ここが難所という時は、意地でもそれをこな[#「こな」に傍点]そうと勉めた覚えはある。
「錦風波《きんぷうは》」の吹き方は、日本海の荒海のように豪壮で、淡泊で、しかもその中に、切々たる哀情が豊かに籠《こも》っている。そうしてどこにか、落城の折の、法螺《ほら》の音を聞くような、悲痛の思いが人の腸《はらわた》を断つ……山形の臥竜軒派では、これをこう吹いて……
それにつけても思い起す、父が尺八というものに対する、あこがれと、理解の程度の、尋常一様でなかったことを。
高橋空山師と計《はか》って、附近の虚空院鈴法寺の衰えたるをおこさんとして果さなかった。あの寺は関東の虚無僧寺の触頭《ふれがしら》、活惣派の本山。下総《しもうさ》の一月寺、京都の明暗寺と相並んで、普化《ふけ》宗門の由緒ある寺。あれをあのままにしておくのは惜しいと、病床にある父が、幾たびその感慨を洩らしたか知れない。自分が孝子ならば、その高橋空山という父の師なる人を探し当てて、そうして父の遺志をついで、あの寺を再興するようなことにでもならば、追善供養として、これに越すものはなかろうに……
父はまたよく言った、人間の心霊を吹き得る楽器として、尺八ほどのものは無く、人間の心霊を吹き現わし得る楽器として、尺八ほどのものは無いと――父といえども、世界の楽器の総てを知りつくしたわけではなかろうが、以てそのあこがれの程度を想い知ることができる。
「竹調べ」から「鉢返し」――「鉢返し」から「盤渉《ばんしき》」
世界もちょうど――平調《ひょうじょう》から盤渉にめぐるの時――心ありや、心なしや、この音色。
五
宇津木兵馬は、今宵月明に乗じて中房《なかぶさ》を出で、松本平の方へ歩みます。
どうして、特に月明の夜を選んだか知らないが、その足どりから見れば、中房の温泉にも望みを失して、すごすごともと来し道を引返す心のうちが、察せられないでもありません。
それにしても、歩みぶりが甚だ悠長《ゆうちょう》で、旅装《たびよそおい》は常習のことだから、五分もすきはないが、両腕を胸に組んで、うつらうつらと歩いて行く歩みぶりは、いくら月明の夜だからといって、案外な寛怠《かんたい》ぶりであります。
兵馬は、それでも、少し自分の足が早過ぎたなという心持で、振返って立ちどまると、後ろに一つ、うつむいて草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結び直すらしい人影がある。
さては伴《つれ》がある――察する通り、その伴の人は、杖を下に置いて、しきりに草鞋の紐を結び直しているものに相違ない。
「どうです、うまく結べますかな」
と兵馬が、寛怠ぶりで問いかけると、
「結べやしませんわ、結んでも結んでも、解けてしまうんですもの」
それは女の声であります。
「ちぇッ、世話を焼かせるなあ」
と兵馬が、少しじれったがりました。
「でも仕方がありませんわ、草鞋なんて、足につけたのは、今日が初めてなんですもの」
といって女は、しきりに草鞋の紐を結び直しているが、思うように結べないらしい。結んではみても、ためしてみると、足につかないで、また解きほごして、結び返しているものらしい。
当人よりも、それを見ている兵馬が、もどかしがって、二三間小戻りをして来て、昼のような月明に、当の女の足もとを篤《とく》と透《す》かして見ました。
「そんな手つきじゃ、駄目駄目」
兵馬は、ついにうつむいて、自分の手を女の足もとにかけて、その草鞋の紐を受取ってしまいました。
「済みません」
女は手を束《つか》ねて、兵馬のなすところに信頼している。
「それ、ここをこうしてち[#「ち」に傍点]にかけて、それから後ろで綾《あや》に組んで、前でこう結ぶのです。こんなことをしていた日には、一町も歩けば、横に曲ってしまう」
草鞋の紐を結ぶということは、あながち、先輩長者に向ってすることだけではないらしい。やんちゃな、扱いの悪い、弱者に対して、そうしなければ道が行けないためしもあるに相違ない。
兵馬は、こくめいに、この女のために草鞋の紐を結んでやりました。
「どうも有難うございました、穿《は》き心がすっかり違いますわ」
女は菅《すげ》の笠をかぶって
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