「なあに、その西郷どんというのは、あけっぱなしのすき[#「すき」に傍点]だらけでしたが、そばに附いているのに物すごいのがいました、うっかり手出しをしようものなら、あいつに斬られてしまいます――それは西郷のお側《そば》去らずで、中村半次郎という男だということをあとで聞きました」
中村半次郎は後の桐野利秋《きりのとしあき》であります。この男が周囲にあるがゆえに、西郷の身辺に近づき難いということは、さもありそうなことです。
そんなようなわけで、七兵衛もいいかげんに見切りをつけて、長追いをしなかったものと見えます。
しかし、前後の行きがかりから、薩摩屋敷なるものの、危険の巣であって、必ずや、そこが火元になって、江戸中を焼き払うの時があるべきことを迷信し、その火つけの総元締が、西郷吉之助であることも充分に想定し、自然、江戸が薩摩を焼かなければ、薩摩が江戸を焼く、といったような結論をつけて、七兵衛なりに、主膳に語り聞かせますと、主膳も相当にうなずいて、
「薩摩と、長州は、本来、江戸には苦手なんだからな。関ヶ原以来の宿怨《しゅくえん》といったようなものがついて廻るからな。あの時に、長州をして薩摩を討たせ、その後に長州を亡ぼそうという魂胆が、こっちに無かったとはいえないからたまらないさ、しかし、それを程よくここまで立てて来たのは、東照権現《とうしょうごんげん》の偉大なる政策と、重大なる圧力の結果だよ」
そんなようなことを言っているうちに、
「まあ、御免下さいまし」
七兵衛は、こんな話をしておいて、急に縁《えん》から立ち上りました。
そこで主膳の前から消えてしまった七兵衛は、つまり御免下さいましの意味は、単に主膳の前だけの暇《いとま》だか、これから例の以前の鎧櫃《よろいびつ》の一間に籠《こも》って、悠々《ゆうゆう》、夜の疲れを休めようとするのだか、或いはまた、これから、何かめざしたところの仕事にでも取りかかろうとして出発を急ぐのだか、乃至《ないし》また、お絹のところあたりへ、ちょっと顔を出して、御挨拶を申し述べてみようとするのだか、それはわからないなりに、まあ御免下さいましと言って七兵衛は、主膳の前から消えてしまいました。
七兵衛が立去ったあとで、神尾主膳は、なんだか平生には似気《にげ》ない心持になりました。
国の亡ぶる秋《とき》遠からず――といったような感慨が、骨まで腐り込んだ主膳の魂のどこかを、軽く突いたようなものです。
万一、徳川の屋台骨《やたいぼね》が崩れるとすれば、その責任はいわゆる旗本にあるのだ。われわれも御粗末ながら、その旗本の末席を汚し来った一人とすれば、その責めを分たねばならないのだ。責めを分たねばならないどころの話か、このおれのような恥知らずの、やくざ者が相ついで出でたればこそ、主家のタガがゆるんだというものではないか。おれたちこそ、実に徳川にとっては獅子身中《しししんちゅう》の虫だ。なんのおれたちが、しっかりしてさえいれば、つまり旗本八万騎なるものが、往昔の三河武士の気骨さえ失わないでいるならば、なんの薩摩が、なんの長州が、歯が立つものか――
おれのような、やくざが旗本から続出したればこそ、それでこうも徳川の屋台骨が傾いたのだ。
徳川の敵はおれたちじゃないか――なあに、天下は廻り持ちだから、三百年も一手に握っていれば、大抵にして他に譲った方がいいのだ。未来|永劫《えいごう》、日本の国の政治の権力が、徳川の手にあるべきはずもなく、あらしめねばならぬ名分もないのだ。栄えるのが何だ、衰えるのが何だ、おれたちは、つまり遊びたいだけ遊べる天下がほしいのだ――と、こんなような理窟をコジつけてみても、さて、外勢力がこの江戸の土を蹂躙《じゅうりん》するような日を予想してみると、腹が立たないわけにはゆかぬ。
国が亡ぶるということは、悲惨中の悲惨なことだ。なにも徳川が亡びたとて、日本の国が亡びるという意味にはならないが、それでも、大坂落城の時の殷鑑《いんかん》はどうだ。自分で飲みつぶし、使いつぶした身代は、また観念もするが、他から侵入され、征服されて、つぶされる運命は癪《しゃく》だ。癒《いや》し難い無念だ、残念だ。
ちぇッ、おれも、こうばかりはしていられないんじゃないか――神尾主膳が、いつに似気なくこんな心持になりかけた時、離れ座敷で糸の音がしました。珍しくお絹が、三味線いじりをはじめたものらしい。
二十
しかし、一方お絹の方では、主膳が身にこたえるほどに感じてはいず、これが年中行事じゃない、日課のおきまりとして、恭《うやうや》しく鏡台に向ってお化粧をはじめました。
主膳が入木道《にゅうぼくどう》を試みるのを、朝のおつとめの快事とするように、お絹がお化粧にかかる時が、この女の三昧境《さんま
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