原がどうした?
 朱羅宇《しゅらう》の長い煙管の吸附け煙草がどうした。
 ははあ――御簾《みす》の間《ま》から扇の間へ出る柱のあの刀痕《かたなきず》――まざまざと眼の底には残るが、あれが机竜之助のした業だと誰がいう。その時分には、おれも眼が明いていたのだ。あの里の太夫というもの――京美人の粋といったようなものにも、おれだって見参《げんざん》していないという限りはない。
 さあ、それがどうした。
 東男《あずまおとこ》を気取ったやからが、かなりいい気な耽溺《たんでき》をしていたたあいなさ。
 まあしかし、そのたあいないところが身上だ、少しの間でも溺れ得る人は幸いだ、売り物の色香にさえも、つかのまでも酔い得る間が、人生の花というものだな。
 おれは酔えない――おれは溺れることができない。
 不幸だ、この上もなく不幸だ。
 竜之助は、朱羅宇《しゅらう》でも、金張《きんばり》でもない、ただの真鍮《しんちゅう》の長煙管で、ヒタヒタと自分の頬をたたきながら、我と我身を冷笑するのは、今にはじまったことではありません。
 その時です、ちょうど、この室から幾間かを隔てた――多分三階ではありますまい、二階の菖蒲《あやめ》の間《ま》あたりでしょう。そこで、
「デーン」
と張りきれるような三味線の音がしました。眼の働きを失って、しかして、耳の感覚が敏感になったというのみではなく、こんな静かなところで、思い設けぬ音《ね》を聞かされた時は、誰だって耳をそばだてます。
 いわんや、それが引きつづいてかなりの手だれ[#「手だれ」に傍点]な調子で、デンデンデンデンと引きほごされてゆくと、机竜之助の空想もその中に引込まれて、
「珍しいなア、太棹《ふとざお》をやっている」
 全く珍しいことです。日本アルプスの麓《ふもと》の、ほとんど人音《ひとおと》絶えた雪の中で、よし温泉場とはいいながら、不意に太棹の音を聞かせようなんぞとは、心憎いいたずらには相違ない。
 といって、必ずしも、それは妖怪変化《ようかいへんげ》の為す業《わざ》でもあるまい。何といっても温泉場は温泉場である。宿の主《あるじ》が気がきいて備えて置いたか、或いはお客のある者が置残して行ったのを、いい無聊《ぶりょう》の慰めにかつぎ出して、手ずさみを試むる数寄者《すきもの》が、この頃の、不意の、雑多の、えたいの知れぬ白骨の冬籠《ふゆごも》り連《れん》のうちに、一人や二人、無いとはいえまい。
 例のお神楽師《かぐらし》にいでたつ一行のうちにも、然《しか》るべき音曲の堪能者《たんのうしゃ》が無いという限りはありますまい。

         三

 だが、その手は何を弾《ひ》いているのだか、正直のところ、机竜之助にはよくわからない。
 しかし、なかなかの手だれ[#「手だれ」に傍点]であることだけはよくわかる。
 そうだなあ、お染久松の野崎村のところに、あんな三味線の調子があったっけ――といって、それには限るまい。三味線の調子にもそれぞれ型というものがあって、それをいいかげんのところへ、つぎはぎして、そうして一曲をでっち上げるのだ。まあ、何だって大抵は手本の種はきまったものだ――少し数を聞いていれば、これは新しいというのは、ほとんど全く無いものだ。
 しかし、撥捌《ばちさば》きはあざやかだといってよかろう、なかなかの芸人が来ているな。
 太夫《たゆう》は語らないで、三味だけが聞える。それは竜之助が聞いて、野崎か知らと思った瞬間もあれば、そのほかの手も連続して出て来る。何がどうしてどこへハマるのだか、竜之助にはわからなくなる。竜之助にわからないのみならず、玄人《くろうと》でない限りは、その弾く手と節の変りを、いちいちそうていねい[#「ていねい」に傍点]に説明するわけにはゆくまいではないか。
 ただ、弾き手自身は、よほど三味線そのものに興味を持っているところへ、思いがけなく、その好物を探し当てたものですから、ことに、無聊至極《ぶりょうしごく》に苦しみきっているためでしょうから、ふるいつくように三味にくいついて、自分の知っている、有らん限りの手という手を、弾きぬいて見る気かも知れません。竜之助とても、それを聞いて悪い気持はしない。太棹《ふとざお》は、やっぱりこのくらい離れて聞いた方がいいな、ことに、なまじいな太夫が入らないのがいい、三味線だけがいい――と、多少の好感を持つことができたのは幸いです。
 そこで、いつのまにか長煙管もほうり出して、肱枕《ひじまくら》になって、やはり、いい心持で弾《ひ》きまくっている三味線を聞いているところへ、ようやくのことにお雪ちゃんが戻って参りました。
「お待たせ申しました」
「長いじゃないか」
「でも、火をおこしますと、あんまりよくおこって勿体《もったい》ないものですから、これで安倍川《あ
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