ろ進んで助けに来てくれてもよかりそうなものを、いち早く逃げ出した気が知れない――と、茂太郎は、自分のいただく般若の面の威力を知らないものですから、海女の挙動を不審なりとしました。
 竹木をいいかげんに組み合わせて、物干台をつくり、それに着物をあんばいして乾かしている間に、茂太郎はふと、その袂《たもと》から蘆管《ろかん》を探り出しました。いいものを見つけたとばかりに、その蘆管をとって、火にあたりながら吹きはじめました。
 茂太郎は、随意に、随所のものを利用して管絃《かんげん》をつくり、随意に鳴らすことを得意としています。洲崎《すのさき》の浜で、この蘆管をつくり、番所の庭で吹いていました。
 その時に、田山白雲が、その笛の音を聞いて茂太郎のために、こういう詩を吟じたことがあります。
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遼東《れうとう》九月、蘆葉断つ
遼東の小児、蘆管を採る
可憐《かれん》新管、清《せい》にして且《かつ》悲《ひ》なることを
一曲|風《かぜ》飄《ひるがへ》りて、海頭《かいとう》に満つ
海樹|蕭索《せうさく》、天|霜《しも》を降らす
管声|寥亮《れうりやう》、月|蒼々《さうさう》
白狼河北、秋恨《しうこん》に堪《た》へ
玄兎城南、みな断腸《だんちやう》――
[#ここで字下げ終わり]
 白雲の豪壮な体躯と、爽快《そうかい》なる咽喉《のど》から、この詩が迸《ほとばし》り出でる時、茂太郎は笛をやめて、白雲の咽喉の動くのを見つめていたことがあります。
 今は、その時とは違って、ただひとり、ほしいままに蘆管を吹き鳴らしていると、ゾッと寒気を催します。何しろ、裸ではあるし、海の風がうら淋しく吹いてくるのですから、蘆管の音そのものまで寒くなるのも仕方がありません。
 幸いにして、その寒気を感じた時分には、着物はおおかた乾いていたものですから、茂太郎は無雑作《むぞうさ》にそれを取って一着に及びました。
 まだ興が中断せず、着物を着て再び薪を加えてから、またも蘆管を取って吹き鳴らそうと試みた時、かの無縁仏の多くの石塔の間に、動いて来るものを認めました。
 小さな獣《けもの》が一つ、乱離とした卒塔婆と、石塔との間に、うずくまっているのを認めたものですから、茂太郎は、
「来い、来い」
と小手招きすると、その獣は、ニャオと鳴いてあちらへ行ってしまいます。
「なんだ、猫か」
 さしもの茂太郎が、暫く呆《あき》れ返ってしまいました。
 その有様は、猫こそ軽蔑すべき動物だ! とさげすみの色に見送る体《てい》です。
 事実、茂太郎は、猛獣毒蛇にも及ぼす魅力を信じているのですから、いかなる禽獣《きんじゅう》ともお友達づきあいができるものと、保証をしているのに、ただ一つ、度し難い動物に猫がある。あらゆる動物のうちに、猫だけがいけない。あいつに表情がない、愛嬌《あいきょう》が無い、おだてが利《き》かない、感激が無い――芸術がまるっきりわからない。猜疑《さいぎ》のくせに柔媚《にゅうび》がある。犬は三日養わるれば忘れないが、猫は三年養われても三日で忘れる。
 鶏は餌をその友に頒《わか》つことを知っているが、猫に物を与えて見給え、何物をおしのけてもあがき食わんとする。時としては自分の産んだ児をすら、むしゃむしゃ[#「むしゃむしゃ」に傍点]と食ってしまう。
 猫の可愛ゆいのは子供の間だけのものだ。その成猫した横着な、取りすました、そのくせ怯懦《きょうだ》にして、安逸を好み、日当りとこたつ[#「こたつ」に傍点]だけになじみたがる――そうして最後には、ただ化けて来ることだけを知っている。あんな動物に芸術がわかってたまるものか。
 そこへ行くと鼠の方がどのくらい可愛ゆいか知れやしない。気の毒そうに、おどおどして人間の物を荒しに来るあのいじらしさ。あの眼つきをごらん、鼠のいたずらを歯がみをして憎がるものでも、あの眼を見た日には、誰も可愛がらずにはいられまい。
 しかし図々しい奴はどこまでも図々しく、箸にも、棒にも、かからない奴は、どうも仕方がないもので、さしもの茂太郎の心の中で、これほどの憎しみと、軽蔑を受けながら、いったん、姿を隠したと思った猫が、ぬけぬけと茂太郎の前へ姿をあらわして来て、例の柔媚な、むずむずとした形で、主人の鼻息をうかがいながら、火の傍へ近より、とうとう、そこに、いい心持でうずくまってしまいました。
 見れば猫のうちでも、最もたちの悪い老猫《ろうびょう》だ。
「ははあ、それでは猫、お前にも、わたしの芸術がわかるかい」
 茂太郎はその図々しさに呆《あき》れ返って、さてまた、寥亮《りょうりょう》として、清にして且つ悲なる蘆管《ろかん》を取って、海風に向って思う存分に吹きすさびました。
 猫は眼をつぶって、それを聞いている。彼の芸術に心酔するようなふりを見せて、その実、た
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