ことにも頓着なく、裸になった海女は、誰に遠慮もなく、海へざんぶと飛び込んでしまいました。飛び込んで、思うさまに泳ぎはじめました。
それは鮑《あわび》を取るためでもなければ、人魚の戯《たわむ》れといったような洒落《しゃれ》た心持でもない。つまり、風呂へ入る代りに、海で色揚げをするのかも知れません。
或いはまた、御亭主殿を失った精力の有り余る海女《あま》は、情念が昂進して来ると、夜中でも飛び起きて、海で遊んで来ないことには、どうにもこうにも、悶々《もんもん》の肉体をもてあますのだとのこと。
ここに限ったことではないが、海の女のあくらつなところへ、もし、気の抜けた、物ほしそうな男でも通りかかってごらんなさい、それこそ命があぶない。
そういうわけでもあるまいが、かなり長い時間を、思う存分に泳ぎ廻った揚句《あげく》――この辺で見切りをつけようとして立ってみると、波のあるわりあいに、そのところは浅く、潮の正味は下腹のところまでしかありません。
そこで、両手を合わせて面《かお》を一つ撫でてから、その両手を後ろへ廻してぬれた髪の毛を手荒く引っつかみ、頭をやけのよう[#「よう」に傍点]に左右に振って、その髪の毛をグルグルと結ぼうとする途端の拍子に、
「おや!」
と波の間をながめました。どうも人の声がしたようです。それは陸上でしたのではなく、海の中で、そうでなければ海の上の、あまり遠くないところで、人の声がしたようですから、髪の毛を後ろで持ったままで、立ちすくみました。
「おばさあーん」
波が行って戻るリズムにつれて、その声が二度、海の上から聞えました。二度まで聞えたのだから、まさに本物です。しかも、二度目のは、前よりも、ズット近い、自分の足もとから二間とは距《へだ》たらないところから聞えたものですから、きっと、その方を見ると、
「おや!」
さしもの、真黒な肉塊の海女がふるえ上って、後ろでつかんでいた髪の毛の手を放し、大童《おおわらわ》で、二度とは、その声のした方を見返らずに、一目散《いちもくさん》に陸《おか》へ走《は》せあがってしまったのは不思議です。
陸へ走せあがると、置き据えた石塔も、焚き残した卒塔婆《そとば》の火も、一切忘れて、ぬぎ放しにした衣類だけを引っかかえて、まっしぐらに逃げ出したのも道理。
海女が立っていた近くの海上には、世にも怖るべき海獣が一つ、漂うている。頭上に二つの角を持って、さながら鬼竜のようなのが、波にわだかまってこちらに向いている。
それが、茂太郎の額にのせられながら泳いでいる般若《はんにゃ》の面《めん》だとは、海女は知りません。
十三
清澄の茂太郎は、海へ溺《おぼ》れる時に、その大切に小脇にしていた般若の面をぬらすまいとして、頭の上へのせました。
ちょうど、額へかぶせて頭を隠しているものですから、その形で泳いでいると、どうしても悪竜が一つ、海の中を渡って来るとしか見えません。
残怨日高《ざんえんひだか》の夜嵐《よあらし》といったような趣《おもむき》を、夜の滄海《そうかい》の上で、不意に見せられた時には、獰猛《どうもう》なる海女《あま》といえども、怖れをなして逃げ去るのは当然でしょう。
そこで、浜に泳ぎついたというよりは、波に任せて、そっと持って来て置いてもらった茂太郎は、極めて従容《しょうよう》として、砂浜の上にすっくと立ちました。
海のおばさんの丸くなって逃げて行く後ろ影を、模糊《もこ》の間《かん》にながめながら、茂太郎は、ぬれた身体《からだ》を自分から顧みると、どうしても、その眼が、さいぜん海女が焚き残したところの、石塔の前の焚火のところに向わないわけにはゆきません。
般若の面を頭へのせたままで、茂太郎は焚火のところへ寄って来ました。
「卒塔婆《そとば》が燃えてらあ、勿体《もったい》ねえな」
しかし、卒塔婆のほかには、多くの燃料がなかったものですから、子供心にも勿体ないと知りつつ、その卒塔婆の折れを増しくべて、火の勢いを盛んにしてしまいました。
それからの仕事は着物をぬいでしぼって、それを卒塔婆の火であぶることです。
般若の面は相変らず、頭の上へのせて着物の一切を脱いでいるから、これも素裸《すっぱだか》であります。
そこで、着物を乾かしながら、自分の身体《からだ》をあたためながら、いいあんばいに、おあつらえ向きに火が燃やされてあったことに、少なからず感謝の念が湧いてみると当然、この火は、いま、丸くなって逃げて行った海のおばさんの焚き残した火だとさとって、その感謝の念を、右のおばさんのところへ持って行かなければならないと思いました。
しかるに、そのおばさんは、何だって、ああして丸くなって逃げて行っちまったんだろう。人が助けを呼んだも同然なんだから、むし
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