か、おまえ知ってる?」
「存じませんが、ありゃ馬鹿ですよ、馬鹿殿様の見本みたようなものでございますよ」
「何をいってるの」
「え」
 お角の言葉に少し険があったので、若いのは急にしりごみをしていると、
「出放題をいうものじゃありません、馬鹿だか、エラ物《ぶつ》だか、お前なんぞにわかってたまるものか」
「でも、親方……」
「女に迷ったってお前、それが何で馬鹿なもんか、迷えるくらい結構じゃないか、高い身分で、低い身分の女を可愛がって、それがどうして悪いの、思案の外《ほか》のところがあってこそ、人間のエラさがあるんだよ、お前なんぞに、あの殿様のエラさがわかってたまるものか」
 政どんは、なにゆえに親方が急に不機嫌になったのだかわからない。
 熱海へ湯治《とうじ》といっても、この女の仕事と、気性では、そう長く湯につかっているわけにゆかないから、今日でようやく一週間――早くも帰りの旅について、これはちょうど、根府川《ねぶかわ》あたりでの物語。
 駕籠《かご》の垂《たれ》を明けっぱなして、海を一面にながめながら、女長兵衛式に納まって、外にいる若いのを相手に話すお角さん。悠々《ゆうゆう》として迫らぬ気取り方もあり、ジリジリと焦《じ》れったがる舌ざわりもあって、まずはお角さんぶりに変りはない。
 ここは雪に埋れんとする白骨の奥とも違い、凩《こがらし》に吹きさらされた松本平とも違い、冬というものを知らぬげな伊豆の海岸の、右には柑橘《かんきつ》が実《みの》り、眼のさめるほど碧《あお》い海を左にしての湯治帰りだから、世界もパッと明るい。
「そうでござんすかねえ」
「そうだとも、お前」
「やっぱり、あの殿様というのは、エライお方なんでございますか」
「エライともお前……お前なんぞに何がわかるものか」
「でも、世間の評判では、あんまりおりこう[#「おりこう」に傍点]な方じゃないって、もっぱら、そう言っているようでござんすが……」
「世間の評判なんて、何が当てになるものか、世間が何と言おうとも、エライ方は、やっぱりエライんだから仕方がないさ」
「そうでござんすかねえ」
「そうだとも、お前」
 若いのには、どうして、親方がこうも躍起《やっき》になるのだか、さいぜんからめんくらっているらしい。
 まあまあ、三千石も取る、そうして前途有望で、ドコまで出世するかわからないと言われた人が、タカの知れた身
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