こだろうねえ」
「左様でございますねえ」
 右に青い海を隔てて、黛《まゆずみ》のようにかすむ山を主従がながめて、
「大方、上総、房州あたりだろうと思うんでございます」
 若いのが、親方から尋ねられて、覚束《おぼつか》なげに返答をすると、親方のお角が、
「そうだろうねえ、上総、房州の方角だと、わたしも、さっきからそう思って眺めているところさ」
 上総、房州では一けた違う、伊豆の半島の東南から見た眼前の突出は、当然三浦半島でなければならないのだが、この二人の頭では、陸地が海へ突き出していさえすれば、それは上総、房州に見えるものらしい。
「え、間違いありません、あれが上総、房州です、ほら、ごらんなさい、あの高いところが、あれが鋸山《のこぎりやま》でござんしょう、そうして、あれが勝浦、洲崎《すのさき》……間違いございません」
 政どんなるものが、一桁ちがいの親方の裏書をいいことにして、自説の誤りなきことを指で保証すると、お角も納得《なっとく》して、
「そうそう、あの辺が洲崎に違いない、洲崎はいやなところだねえ」
と、若いのが指さした岬の突端あたりに、遠く眼を注いでいると、
「親方が命拾いをなさったというのは、あれでござんすか、いやに波の穏かな、そのくせ、舟や人をさらって、いいようにおもちゃにするという、ふざけた海はあの辺でござんすか」
「ほんとに、いやな海だよ、だけれどもねえ……いやな海には違いないけれどもねえ」
 いやな海には違いないけれども、どうしたものか、さいぜんから、そのいやな海の方面に注いだ眼をいっこうはなさないで、
「いやな海は、いやな海だけれども、わたしにとっては、ずいぶん思い出がないでもないのさ」
「そうでござんしょうとも」
「ねえ、政どん」
「はい」
「お前、どう思ってるの」
「何をでございます」
「あの、ほら、東海道の三島の宿から下座《げざ》へ入った、お君っていう子ね」
「ええ、よく存じておりますよ……きれいな子も多いが、君ちゃんは品が違いましたよ。ようござんしたね、人柄がようござんした、ほんとうに惜しいことを致しましたよ」
「わたしも、本当に惜しいことをしたと思っているのさ、ああなるくらいなら、別に考えようもあったものをね」
「全くでございます、好いが好いにはなりません、悪いが悪いにゃなりません」
「そうして、あの君ちゃんの殿様てのは、その後どうなった
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