神となり、女房が朝日権現とあらわれる――これは文徳天皇の御時なりし……とある物臭太郎一代記を神主の口から、かいつまんで聞かされてしまった宇津木兵馬。
 すすめられた渋茶に咽喉《のど》をうるおして、いざとばかり、再び立ち出でた前路に日が高い。
 物臭太郎一代記――思い出してもばかばかしさの限りだが、時にとっての何かの暗示。
「辻取り」というのは、初めて聞いた。
 刀には「辻斬り」というのがある。柔術《やわら》には「辻投げ」というのがある。ならば「辻取り」というのもあってよかろうはず。いや、その物語によれば、辻取りは、辻斬りや、辻投げの流行せしずっと以前に行われていたはず。
 結婚は、ついに掠奪《りゃくだつ》であるというような思想が、兵馬の頭をかすめた時に、かれは浅ましい思いをする。物臭太郎の場合は、それが無邪気に実行されたのみだが――歴史は無邪気のみを教えない。
 兵馬の頭が、奪われたる女ということに向う。「辻取り」は今の世、今の時にも行われる。現に、たった今、その災難に逢ったのは自分ではないか。
 奪われた心。奪われたのではない、いわば厄介払いをしたのだが、なんとなく安からぬ心を、如何《いかん》ともすることができない。
 人もあろうに仏頂寺、丸山のやからに、むざむざと一人の女性を渡してやったその不安。
 日が高くなるほどに、兵馬にはその不安がこみ上げて来る。
 ついに決心して、自分はそのあとを追わねばならぬ、追いかけて、二人の手からあの女を取り戻して……取り戻さないまでも、あの女の先途《せんど》を見届けてやらねばならぬ。これは単に女というものに対するの未練執着ではないのだ、義の問題だ、人間の道だ。
 女の性質がどうあろうとも、こうあろうとも、むざむざと食い物にせらるべき運命をよそにして、ひとり悠々閑々の旅行ぶりが続けられるか、続けられないか。
 兵馬はにわかに腰の刀をゆり上げて、松本街道の一本道を、駈足で走り出しました。

         八

 雪に埋《うも》れんとする奥信濃の路とは違い、ここは明るい南国の伊豆、熱海街道の駕籠《かご》の中に納まって、女軽業《おんなかるわざ》の親方のお角《かく》が、駕籠わきについている、いつも、旅には連れて出るいなせ[#「いなせ」に傍点]な若い衆に向って言うことには、
「ねえ、政《まさ》どん」
「はい」
「向うに見える山はありゃど
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