分違いの女一人のために、名誉も、身上も、棒に振ってしまった、全く馬鹿殿様と言われても仕方があるまいではないか。それを、親方のお角が、何でこんなに身を入れて、弁護するのだかわからないが、うっかりその殿様の悪口《あっこう》をいえば、親方の御機嫌がこの通りに損《そこな》われるということだけは、この際、ハッキリと経験したから、以後は自分も慎み、朋輩《ほうばい》にも申し聞けておかねばならぬという戒慎の心だけは起ったらしい。
「そうでしょうね、やっぱり、エライ人は、エライんでござんしょうよ」
詮方《せんかた》なく感心しておくと、
「それからね、政どん」
「はい」
「わたしは、申し置いて来るのを忘れたが、あの絵の先生ね」
「ええ、田山白雲先生でございましょう」
「そうそう、あの先生に、一言おことわりをしておくのを忘れちまったから、あとからもしや間違いがなけりゃいいと気のついたことが、たった一つありますよ」
「それは何でございますか」
「もしや、がんりき[#「がんりき」に傍点]の兄さんが、留守中にやって来て、例の調子で、先生に失礼なことをしやしないか、それが、あとで心配になり出して、ことわって来ればよかったと、いまさら気を揉《も》んでいるのさ」
「なるほど、その辺もありましたねえ」
「お前、がんりき[#「がんりき」に傍点]があの通り気の早い男でしょう、絵の先生ときたら、お前、かなりの豪傑者なんだから、間違いがなけりゃいいがと心配するのも、無理のない考えだろう」
「そうでございますとも……ですけれどもね、絵の先生の方は、豪傑は豪傑でいらっしゃるけれど、人間が出来ておいでなさるから、まさか、がんりき[#「がんりき」に傍点]の兄さんを相手に、大人げのないこともなさるまいと思います、御心配ほどのことはござんすまいよ」
「そりゃそうかも知れない」
「大丈夫でございますよ」
一けた間違えられた房総の半島がワキに廻って、当面の風景は、大山阿夫利山《おおやまあふりさん》であり、話題は留守中の人に向っている時、後ろでしきりに人の呼ぶ声がします――最初は自分たちを呼ぶのではあるまいと思ったが、今になってみると、自分たちを呼んでいるのに相違ないと疑われる。
どうも自分たちを呼びとめるような声だけれども、待ってみると誰も来ず、来ても全く当りさわりのない人間ですから、そのまま駕籠《かご》を進ませると、
前へ
次へ
全187ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング