巻物を繰りひろげ、
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「東山道、みちのくの末、信濃の国、十郡のその内に、つくまの郡《こほり》、新しの郷《さと》といふ所に、不思議の男一人はんべり、その名を物臭太郎ひぢかず[#「ひぢかず」に傍点]と申すなり……」
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ここで兵馬は、ははあ、物臭太郎にも名乗りがあるのだな――物臭太郎ひぢかず、ひぢかず――という字は、どう当てるか知らないが、ともかく、物臭太郎も名乗りを持っているということを、この時はじめて知りました。
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「ただし、名こそ物臭太郎と申せども、家づくりの有様、人にすぐれてめでたくぞはんべりける……」
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と読まれて、では、名こそ有難くはない名だが、家はこのあたりの豪族にでも生れたのだろう。そうしたものかと考えていると、神主はすらすらと読み続けて、その宏大なる家の構えぶりに抑揚をつける。
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「四面四方に築墻《ついぢ》をつき、三方に門を立て、東西南北に池を掘り、島を築き、松杉を植ゑ、島より陸地へ反橋《そりはし》をかけ、勾欄《こうらん》に擬宝珠《ぎぼし》を磨き、誠に結構世に越えたり、十二間の遠侍《とほざむらひ》、九間の渡廊、釣殿、梅の壺、桐壺、まがき壺に至るまで、百種の花を植ゑ、守殿十二間につくり、檜皮葺《ひはだぶき》にふかせ、錦を以て天井を張り、桁、梁、木の組入には、白銀黄金《しろがねこがね》を金物に打ち、瓔珞《やうらく》の御簾《みす》をかけ、厩《うまや》、侍所に至るまで……」
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これは大変なものだ、と兵馬が思いました。
なるほど名こそ物臭太郎だが、この住居の結構は藤原時代で、三公を凌《しの》ぐものだ、なるほどと、兵馬が深く思い入れをした様子を見て神主は、ちょっと朗読を中絶して、
「大したものでござんしょう、これでは平安朝時代、藤原氏全盛の頃の並びなき公卿《くげ》さんのお住居です、物臭太郎が、こういった宏大な家に住んでいたと思うと不思議でございましょうが、まあ、もう少しこの先をお聞き下さい、いいですか」
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「厩《うまや》、遠侍に至るまで、ゆゆしく作り立てなさばやと心には思へども[#「なさばやと心には思へども」に傍点]、いろいろ事足らねば[#「いろいろ事足らねば」に傍点]、ただ竹を四本立ててぞゐたりける[
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