君も一旦は浅間へ帰るとしても、末長くあの地にもいづらかろう、どうだ、われわれと一緒にどこぞへ行かないか」
「どうせ、ひびの入ったからだでございますから、どちらへでも、住みよいところへ行って、たよりになれるお方にたよりたいと思います、どうぞ、よろしく」
「は、は、は、は」
 なにゆえか仏頂寺が、わざとらしい高笑いをしたのが、兵馬の耳にたまらないほどのいやな思いをさせました。
 そこへ、丸山勇仙が、とつかわ[#「とつかわ」に傍点]と立戻って来て、
「やっと山駕籠《やまかご》を一挺探して来たよ、駕籠はいくらもあるにはあるんだが、人手が無いんだ、おどしつ、すかしつするようにして、ようやく一挺仕立てて来た」
「そうか。では、出立としよう、君」
と女を顧みて、
「駕籠が来たそうだから、乗り給え」
「はい」
 女も無雑作《むぞうさ》に立ち上りました。

 ひとり残された宇津木兵馬。
 これではなんにもなりはしない。
 自分が空遠慮をしていたために、その御馳走を、横合いから頼もしからぬ者共に、むざむざ食われている心持もしないではない。
 これを、厄介払いしたと、思いきるわけにもゆくまい。
 物臭太郎にあやかったわけでもなかろうが、兵馬は、急に立ち上る気にもなれないものと見え、包みを解いて、中から取り出したのが信濃国の絵図。それを縁台の上へ繰りひろげて、あれからこれと、指で線を引いてながめている。
 そこへ神主のような人が来たから、兵馬も、ちょっと身を起して、あいさつをする。
 神主なかなかなれなれしく、炉辺へ腰をおろして話しかけるものだから、兵馬も、
「いったい、この物臭太郎というのは何です」
「物臭太郎でございますか――それをいちいち説明して上げるよりも、ここに絵巻物がございます」
 神主は頼まれもしないのに、立って床の間から一巻の絵巻物を持って来て、
「物臭太郎物語――ね、これでございます、なかなか名文章でございますよ、竹取、うつぼ、源氏物語などとは違った面白味がございます。滑稽味のある古文では、ここらが第一等でござんしょう。日本人にはいったい、滑稽味が乏しいなんて言う人もありますが、どうして、この辺になると、古雅で、上品で、そうしてたまらない可笑味《おかしみ》がございます。ひとつ、読んでお聞かせ申しましょう、ようござんすか、お聞きなさい」
 神主はこういって兵馬の前に、その絵
前へ 次へ
全187ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング