のだな」
「有るべきはずがない」
 兵馬は内心苦しく言い切ると、仏頂寺が、
「ならば、事は簡単だ。丸山、もうこれから中房まで行くがものはない、浅間へ引返そうではないか」
「そういった理窟だな」
 丸山勇仙が、空うそぶくような調子で返答しました。そこで仏頂寺は、事改めて女の方を向いて、
「ねえ、君、君はどうしても一応はその抱え主まで、わびをして帰らなければならん。そのおわびには不肖ながら、われわれが立会って、今後にむごいことのないようにして上げる。ここからは乗物か何かあるだろう、善は急ごうじゃないか、君の方に異存がなければ、これからわれわれと一緒に浅間へ帰ろう」
「どうぞ、お連れ下さいまし」
 女はわるびれずにいいました。仏頂寺はそこで、丸山の方に腮《あご》を向けて、
「丸山君、君ひとつ、そこらを駈けまわって、乗物を一挺探して来ないか、何でもいい、人間の乗れるものなら何でもさしつかえない」
「よろしい」
 丸山勇仙は命をかしこんで、さっさと物臭太郎を外へ飛び出してしまいました。
 そこで仏頂寺弥助が、改めて兵馬の方に向って、
「君、宇津木君、抜けがけをしちゃいかんよ、われわれとても、君の立場には同情し、どうか成功させて上げたいと、これでも、蔭になり、日向《ひなた》になって、相当苦心しているのだ、それを君が買ってくれないで、事毎に、われわれを出しぬくような真似《まね》ばかりされたんでは、われわれとしてもやりきれない、第一、われわれ亡者と違って、前途ある君の生涯をあやまらせたくないのだ」
 あんまり有難くは聞けない諫言立《かんげんだ》てを、聞いているのがばかばかしい。
「君たちのいいようにし給え」
と兵馬は、聞きようによっては自暴《やけ》に聞けるようなことを言って、また最初の通り、縁台の上へゴロリと横になってしまいました。そうすると、仏頂寺は女の方へ向いて、
「ねえ、松太郎君、君もそうだよ、いかに商売柄とは言いながら、少しは分別というものをおいてもらわなくちゃならん、無茶苦茶をやっては、つまり己《おの》れの身が詰まるばかりだ」
「それはよくわかっていますけれども、どうも仕方がありませんわ、運命というものなんでしょう、わたしたちの身の上なんぞは、世間並みにごらんになると違います」
「その運命というやつが不思議なものなんだ。ところで、どうだ、正直のところ、ああは言ったものの、
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