、別に何か生涯の考えはなければならないはずだ――と、兵馬はよけいなことを考えてみる。よけいなことではないのだ。つい先頃までは、自分の心持のほとんど全部を占領していた重大事には相違ないのだが、強《し》いてそれを、ツマらないこととして葬ってしまおうと苦心している時、入口ののれん[#「のれん」に傍点]が颯《さっ》とあいたので、われにかえりました。
「来たな……」
来たのは女だ……と思いました。それは今まで頭の中にこびりついていた元のなじみの女の顔だか、それとも馬を以て迎えにやった、かりそめの道中づれの女だか、ちょっと、兵馬の頭では混乱しましたけれども、来たのは、まさに女に違いない――と兵馬は、バネのようにはね起きました。
バネのようにはね起きなくとも、むしろこの場は、来ても、来なくてもいいように、悠然《ゆうぜん》と横になっていた方が形がよかったかも知れないが、兵馬はとにかく、バネのようにはね起きてから、自分の軽挙を、多少にがにがしいように思い直し、わざと落ちついて、のれんの方を見ると、ほとんど音もなくはいって来たにははいって来たが、それは女ではありませんでした。
女でないのみならず、男のうちでも筋骨のたくましい、風采《ふうさい》のいかめしい、面構《つらがま》えのきかない、そのくせ、はいり端《ばな》に兵馬と面《かお》を見合せて、ニヤリと笑った気味の悪い武芸者風の壮漢でありました。
「やあ、仏頂寺」
バネのように起き直った兵馬がそれを見て、驚愕と、苦笑とを禁ずることができません。
「宇津木、ここにいたのか?」
仏頂寺の後ろには、影の形におけるが如く、丸山勇仙も控えています。
物騒なのが二人、連れ立って来るからには、もう少し肩の風が先吹きをしていそうなものだと思えないでもないが、そこは疾《と》うに亡者の数にはいっている二人の者、音もなく、風も吹かさず、入り込んで来たからとて、そう驚くがものはないのだが、兵馬は驚いたのみならず、多少、狼狽《ろうばい》の気味でさえありました。
気味悪く、ニヤリニヤリと笑いながら仏頂寺は、兵馬のそばへ寄って来て、横の方の縁台へ腰を卸《おろ》すと、丸山勇仙もまたそれに向き合って腰をかけ、
「宇津木君、君あ存外人が悪いな」
と勇仙が言いました。
「なに、別段悪いことをした覚えはない」
兵馬が申しわけをする。
「いかん、いかん……君は悪いこ
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