送り届けるだけで、拙者は御免|蒙《こうむ》る、拙者には、拙者としての仕事があるのですから」
「どの面《つら》さげて、わたしが浅間へ帰れましょう、あれは嘘です、嘘よりほかには、申上げられようがありませんでしたもの」
「嘘はそちらの勝手、拙者は、拙者だけの勤めを果せばいいのだ」
「ようござんす」
そこで、ふっと、今まですがっていた兵馬の袖を、女がはなしました。
兵馬は多少のハズミを食ったが、やはり最初の調子の、悠々閑々ぶりを改めず、あとを振返ることもなくして、フラフラと歩んで行くのであります。
女は、どうしたものか、恨めしそうに兵馬の後ろ姿を見てはいるが、以前のように追いすがろうともしない。また、静かにそのあとを慕《した》って来ようとするの様子も見えない。じっとその地点に立ち尽しているのです。
そうなってみると、兵馬も、多少の不安を感じないわけにはゆきません。だが、自分の強《し》いて、つれなく言い放した言葉の手前からいっても、いまさら未練がましく後ろを振返って見るというわけにもゆきません。
いや、そう言っているうちに、また追いかけて来るだろう、追いかけて来ないまでも、何とか呼びかけてはみるだろう、というような期待もあって、兵馬は相変らずの調子で、日本アルプスを後ろに、松本平を前に、月明の夜、天風に乗じて人寰《じんかん》に下るような気取りで歩いて行きましたが、今度はさっぱり手ごたえがありません。後ろから呼びかける声もなく、追いすがる足音もなく、そうして、とうとう一町半ほど歩んで来てしまいました。
その時に、兵馬も、不安を感じないわけにはゆきません。
実は、不安を感ずるのはいけないのだけれど、最初の機鋒を最後まで通して、女が泣こうが、追いすがろうが、立ちどまろうが、退こうが、押そうが、動ぜずして振切り通すだけの切れ味があれば、さすがなのだが、これが無いところが、兵馬の兵馬たるゆえんかも知れません。
一町半ほど、そうして歩いたところで、やむなく兵馬は後ろを顧みてみました。
そこには誰もいない。
月夜で、見通しの利《き》く限り、その一町半の間には紆余曲折《うよきょくせつ》も無かったところに、女の影が見えません。
あっ! と兵馬は面《かお》の色をかえました。今ここで面の色をかえるくらいなら、最初から、あんなつれない[#「つれない」に傍点]真似《まね》をする必
前へ
次へ
全187ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング