るのですか」
「お江戸でいけなければ、どこでもようございます――京でも、大阪でも、いっそ、誰も知らない山の中でも、海の涯《はて》でも、どこでもようございますから、このまま、わたしを連れて逃げて下さいまし」
「なるほど」
 兵馬は、この間も、腕組みをして、悠々閑々と歩いていることを少しも止めないでいましたが、この時から、以前、二三間ずつは必ず離れていた女が、兵馬の袖にすがって離れません。
「ねえ、片柳様、押しつけがましいことですけれども、わたしはそう思います、因縁《いんねん》だと思います、金にあかしても、わたしを欲しがる人には行きたくありません、かゆいところに手の届くほど親切にして下さるお方のところへも行きたくありません、ホンの袖すり合うたような御縁のあなた様におすがり申します、このまま、わたしを連れて逃げて下さい」
「…………」
 兵馬は、やはり腕組みをしたまま、無言で歩きつづけながら、身ぶるいをしました。
 この手にはかかっている――商売人の用いたがる手だ。江戸の吉原で、おぞくもこの手に引っかかって、苦い経験を嘗《な》めたのは、そんなに遠い過去でもない。
 実はこの手を警戒すればこそ、この道行も、ワザと離れ離れのよそよそしさを、兵馬自身から仕向けていたのではないか。
 まあ、最初のかかり合いから言えば、戸惑いとは言いながら、自分の座敷へころがり込んだ、あれが間違いのもとなのだから、相当の責任感をもって、この女のために証明の役目も果し、浅間の元の主人のところへ落着けてやるまでは、旅の道草としても、意義のないことではないと思って、頼まれるままに、浅間へ送り届けることだけは、引受けたに違いない。
 だが、あぶない。女がなかなかのあだものであるだけに、またその道の玄人《くろうと》だけにあぶないものだ――先方があぶないのではない、こちらがあぶないのだ。
 ここに至って、兵馬の懸念《けねん》と、不安とが、まともにぶっつかって来ました。
「冗談《じょうだん》をいってはいけません」
 歩きながら兵馬はこう言いました。
「冗談ではございません――あなたには冗談に聞えるかも知れませんが、わたしは真剣でございます、命がけでお願いしているじゃありませんか」
「そういう頼みは聞かれない」
「では、わたはどうなってもいいのですか、どうすればいいのですか」
「それまでは考えていられない、浅間へ
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