馬は眉《まゆ》をひそめて、突立っています。
 その時、暫く思案していた宇津木兵馬は、足を踏みならして、
「そうですか、では、あなたは疲れの休まるまで、休息していらっしゃい、拙者は、ひとりでブラブラと出かけます」
といって、彼はそこを歩き出してしまいました。
「まあ――ひどい人」
 女の驚愕《きょうがく》をあとにして、兵馬は以前の通り悠々閑々たる足どりで、両腕を胸に組んで歩き出します。日本アルプスの大屏風《おおびょうぶ》を背景にして、松本平を前に望むところ――孤影|飄々《ひょうひょう》として歩み行くあとを、女が追いかけました。
「まあ、片柳様、あなたはほんとうに、わたしを打捨《うっちゃ》っておいでなさるのですか」
 兵馬はそれに答えずして、フラフラと歩いて行きます。片柳とは宇津木の変名。
「あんまり、ひどい」
 女は追いかけて、追いすがりました。
「それでは、あなた、約束が違やしませんか」
「約束とは?」
「わたしを救い出して下さる、あなたのお約束じゃありませんか」
「救い出す――いつ、わたしが、そんなことを言いましたか」
「あら、また、あんなことをおっしゃって……あなたをお力にすればこそ、こうして、わたしは、逃げ出して来たんじゃありませんか」
「人をたより過ぎてはいけません、拙者は人にたよられるほどの人間ではありません、人にたよりたいくらいの人間ですよ」
「では、わたしというものを、どうして下さるの……」
「浅間の、もとの主人まで送り届けるだけのことはします」
「それだけじゃいけません」
「いけませんといったって、それより以上のことは、拙者の役目にないことで、またしようとしてもできないことです」
「ねえ、あなた、浅間へ帰ると言いましたのは嘘なんですよ、わたしは、あんなところへ帰る気はありません」
「帰らなければ、どこへ行きます」
「わたしは、江戸へ帰りたいのです」
「それは事情が許しますまい、江戸へ帰るならば、帰るようにして帰らない以上は、迷惑が湧いて、災難を求めるようなものです」
「ただは帰れませんから、逃げて帰るよりほかはありません」
「一里二里も覚束ない足で、どうして江戸へ帰ります」
「ですから、わたしは、あなた様におすがり申しているじゃありませんか、どうぞ、このまま、わたしを連れて逃げて下さい」
「何をおっしゃる――そなたを連れて、拙者に江戸へ逃げろといわれ
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