く、ただ、兵馬の頭が、全く別なことを考えているから、足がふらふらとしてその空想に駆《か》られて、現実を忘れがちにするの結果と思われます。
「それじゃ駄目ですよ、松本どころではない、この先一里も覚束ない――困ったな」
 兵馬はまたも、立ちどまってつぶやきました。
「そんなに小言《こごと》をおっしゃらなくってもいいじゃありませんか、置去りになすったり、お小言をおっしゃったり、ほんとうにたよりのない道行……」
と女が息を切りました。
「仕方がない……」
 兵馬が、やはり途方に暮れた返答ぶりです。
 仕方がないといえば、全く仕方がない。ほかの道中と違って、馬や、駕籠《かご》をたのむ便宜もなし、そうかといって、自分が引背負って行くわけにもゆかず、万一の場合には、たたき起すべき旅籠屋《はやごや》すらも当分みつかるべき道ではない。そのくらいなら、いかに月明に乗じたとは言いながら、夜分、こうして出て来るがものはないじゃないか。だが、そのほかの理由で、二人が、馬も駕籠も借らずに、夜を選ばねばならなかった筋道は、相当にあるだろうと想われます。
 ただ、兵馬として案外なのは、女の足が弱過ぎたことです。想像以上に、この女の足が弱過ぎました。
 草鞋《わらじ》をつけたのは、生来これが初めて――それはよいとしても、一町行っては息を切り、二町歩いては休む、これで前途の旅をどうするのだ。
 前途といえば、二人はどこを目的《めあて》として行くのだ。さし当り、このまがいものの道行、離れ離れの水臭い道行も、行をともにしている以上は、落着くところもきまっていそうなものに思われる。
 兵馬としては、求むるものは、いつも与えられずして、求めざるものに、ついて廻られるような結果になる。ついて廻るならまだいいが、時としては、それに引きずられるような危なっかしいことさえしばしばあるのには困る。世間の事実は往々逆説になって、足の強いものが、足弱を引きずらないで、足弱が、健足のものを引きずるためしが、ザラにないとはいえない。
 兵馬としては、この予想外に足の弱い女を、自分が引きずりながら歩いているのだか、引きずられて困惑しているのだか、ちょっと、わからない立場でありましょう。
「もう歩けません、あなたお一人でいらっしゃい――どちらへでも」
といって、女は有明明神の社壇の下に、腰を下ろしてしまいました。
「ちぇッ」
 兵
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