、女合羽を着て、手甲《てっこう》脚絆《きゃはん》をした、すっかり、旅の仕度の出来ているところ、兵馬とは十分しめし合わせた道づれのようであります。
 そこで兵馬は、先に立って歩き出したが、以前のように、両腕を胸に組み上げながら、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》と歩いていても、それでも女は歩み遅れる。どうしても、二人の間が二間、三間と隔たりの出来るのは免れないらしい。
 これは行き過ぎたと思っては、踏みとどまって待受けて、また、そろそろ踏み出すと、忽《たちま》ちまた二三間の隔たりが生ずる。
「片柳様、誰も追いかけて来やしませんから、もう少しゆっくり歩いて下さいな」
と女が訴えました。
 兵馬としては、これより以上の寛怠《かんたい》はできないらしいが、その寛怠が女の足では、追従のできないほどの急速力とも見られるようです。
「その足で、松本までは覚束《おぼつか》ない」
 兵馬は憮然《ぶぜん》として突立って、念入りに女の足もとを見ました。
 これは、また奇妙なる一つの道行《みちゆき》といわねばならぬ。
 兵馬の道づれの女は、浅間の温泉で、芸者をしていた女であります。
 酔って、手古舞姿で、兵馬の室へ戸惑いをして一夜を明かしたために、大騒動を持上げた女であります。その結果、八面大王の葛籠《つづら》の中へ納められて、中房の温泉場へ隠された女であります。それを兵馬が、夜具蒲団の砦《とりで》の中で、偶然発見した女であります。
 この数日来――期せずして、どうも、兵馬の先廻りをして歩いているもののようです。
 今や、こうして、月明の夜、二人同じく旅よそおいをして、道を共にしてみれば、夫婦としては少し釣合いがまずいようだが、力弥《りきや》としては、兵馬に少し骨っぽいところがあり、小浪《こなみ》としては、この女に少し脂《あぶら》の乗ったところがあるようだが、誰がどう見ても、尋常の旅とは見えないでしょう。
 しかし、依然として二人の間は離れ過ぎている。待ち合わせても、待ち合わせても、いつか知らず二三間は隔たりが出来てくるのです。道行としては、こんな離れ離れの水臭《みずくさ》い道行というものがあるべきものではありません。
 兵馬がこうして、ついつい、連れの足弱を置去りにするような歩み方ばかりするのは、人目を気兼ねするのではなく、また、二人ばかりの山路の夜道に、人目を気兼ねする必要が毛頭あるのでもな
前へ 次へ
全187ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング