要は無かったではないか――

         六

 呼びかけると思った女が、呼びかけません。追従し来《きた》ると思った人が、追従して来ないのみならず、影と、形とが、見ゆべきところから消え去っています。
 この案外には、兵馬が手脚《しゅきゃく》を着くるところなきほどに惑乱しました。
 われに追従して来なければどこへ行く――この場合、その方向転換の目的が、人の身として考えても、自分に比べて考えても、皆目わからないのであります。
 行くところの道を失えば、当然、その帰結は自暴《やけ》のほかにありません。
 自暴――女にとって、その恐るべきことは、破滅を恐れないのでわかります。しかし、その点は心配するほどのものはあるまい、処女ではないのだから。処女でないのみならず、商売人なのだから。自暴《やけ》のために身をあやまる時代はすでに過ぎている。
 しかし――という余地はないはず。その切れ味の鈍《にぶ》いところが、それがいけない。
 よろしい、去る者は追えない。拗《す》ねる者をあやなす引け目もないはず。
 一処にその未練を残すから、万処がみな滞るのだ。
 進むに如《し》かず――さりながら、兵馬は一つところを歩いているような心持で、月明を松本平に向って下って行くのです。
 鶏《とり》がないた。何番鶏か知らないが、もう夜明けの時だ。
 ふと、馬の高くいななくのを聞いた。
 馬――暫くぼんやりしていて、ハッと気がついたように、その馬のいななきの方へ、桑の畑を分けて進んで行くと、とある農家の厩《うまや》の前に、童《わらべ》がしきりにかいば[#「かいば」に傍点]をきざんでいるのを見る。
「お早う」
「お早うございます」
「済まないがね、君」
「はい」
「少し馬を頼みたいのだが」
「この馬は、等々力《とどろき》へ豆を取りに行く馬でございますが」
「そこをひとつ折入って頼むのだ、有明明神のところまで……」
「明神様までなら、そんなに遠くはねえのだが……」
「うむ、ちょっとの間だ、そこへひとつ馬を連れて行って、多分、あの辺に、旅に疲れた女の人が一人いるはずだから、それを馬に乗せてつれて来てもらいたい」
「ここまで連れて来ればいいのかね」
「ここまでではない、左様、穂高の村まで連れて来てもらいたい」
「穂高のどこまで連れてくだね」
「左様、よくは知らないが、あの穂高神社の附近に拙者が待っているか
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