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「苦しうございます――」
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と、お雪ちゃんが書き出したのは、少なくとも異例です。
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「苦しうございます、あなたのおっしゃる通りの運命が、わたしの上に落ちて参りました。
穂高、乗鞍、笠ヶ岳の雪が日一日と、この白骨の温泉の上を圧して来ますように、わたくしの胸が……ああ、弁信さん、わたしは、もうトテも筆を取って物を書いているに堪えられません。
弁信さん――
どうぞ、わたしのそばに来ていて下さい。あなたがいなければ、わたしは助からないかもしれません――殺されてしまいましょう」
[#ここで字下げ終わり]
一方、お雪ちゃんが帰ってからの机竜之助は、行燈《あんどん》の下で暫くぼんやりとしておりました。
行燈の光なんぞは、有っても無くってもいいわけですが、それでも、有れば有るだけに、何かしらの温か味が、身に添わないという限りもありません。
暫くぼんやりとしていたが、やがて無雑作《むぞうさ》に左の手を伸ばすと、水を掻《か》くように掻きよせたものが、かなり長い袋入りの一品であります。
この人のことだから、それは問うまでもなく、手慣れの業物《わざもの》と思うと案外、その黒い袋入りの一品を手にとって、クルクルと打紐《うちひも》を解いて取り出したのは、尋常一様の一管の尺八でありました。
極めて簡単にそれを引き出して、歌口を湿してみましたが、相応に興も乗ったと見えて、いずまいを直して、吹き出したのを聞いていると「竹調べ」です。
机竜之助は、どの程度まで尺八を堪能《たんのう》か知らないが、おそらく、この男が、この世における唯一の音楽の知己としては、これを措《お》いてはありますまい。
これは父から習い覚えたものです。父は幼少の竜之助に、本曲のほかは教えませんでした。竜之助もまた、父の教えた本曲のほかには、何を習おうともしませんでしたから、知っているのは本曲ばかり。興に乗って吹いてみるのも、興に乗らずして手ずさみに笛を取ってみる時も、やはり本曲。
つまり、本曲のほかには、吹くことも知らず、吹こうともしませんでした。
といって、本曲、そのものの玄旨に傾倒して、他を顧みずというほどに、妙味がわかって吹くというわけでもないのです。父から、やかましい伝来の由緒を、教えられるには教えられたけれど、そんなことは、てんで頭へは寄せつけなかったく
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