大軍|徒渉《とせふ》、水、湯の如し
未《いま》だ十人を過ぎずして
二三は死す……
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と断続して、「且《しばら》ク喜ブ、老身今|独《ひと》リ在リ、然《しか》ラザレバ当時瀘水ノ頭《ほとり》、身死シテ魂|孤《こ》ニ骨収メラレズ、マサニ雲南望郷ノ鬼トナルベシ……」と、急転直下、朗読体に変って行ったのが、白日の浴室の中に、恨みを引いて糸の如し、と見れば見られないこともないのです。
 果して、お雪ちゃんはその日一日を、源氏の間で暮してしまいました。
 暗くなって帰る時、ちゃんと竜之助のそばへ行燈《あんどん》をつけて、自分の部屋へ帰り、そこでまた行燈をつけて、炬燵《こたつ》のうずみ火を掻《か》き起して、やぐらの上へ頬ずりをするほどに身を押しつけてしまったくらいですから、別段、あわてた素振《そぶり》も、うろたえた様子も見えません。
 けれども、そこで、ぐったりとして、改めて仕事にかかろうでもなし、別に蒲団《ふとん》をのべて寝ようとするでもありません。
 じっと、炬燵櫓《こたつやぐら》の上に身を押しつけたままで、動くことさえがおっくう[#「おっくう」に傍点]のように見えました。
 こうして、半時ばかりも、じっとしている間に、ひとりでにお雪ちゃんの眼が、涙でいっぱいになりました。
 いっぱいになった涙が、ハラハラと頬を伝って流れましたけれども、それを拭おうともしない間に、相次いでの感情がこみ上げて来ると見えて、ついつい本当に泣いてしまいました。本当に泣くと、ここでは、思うさま、誰に遠慮もなく、泣いて泣いて、泣けるだけ泣いてしまいました。
 若い娘は箸《はし》のころんだのにも笑いたがると共に、葦《あし》の葉の傷《いた》めるのにも泣きたがるものです。
 お雪ちゃんという子は、今まであまり泣きたがらない子でありました。それは泣くべき必要がないからでした。誰をも同じように愛し、同じように愛されている者に、泣くべき隙間の起るはずがありません。
 お雪ちゃんは、その晩、改まって床に就いたのか、就かないのかわかりませんでしたが、翌朝になると、かいがいしいみなり[#「みなり」に傍点]をして、机に向って一心に物を書きはじめました。

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「弁信さん――」
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 弁信の名は、まさしくこの娘のためには救いであるらしい。
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