れを賑《にぎ》わしたあの子が、めっきり引込思案になってしまったのは気になるよ」
 そこで二分間ばかり話が切れ、
「あの娘は看病に来ているんだよ――病人を連れて来てるんだね、その方が忙しいんだろう」
「え……病人を連れて、あの久助という老人のほかに、あの娘に連れがあったのかい」
「あったにもなんにも……だが、誰もまだ同じ宿にいながら、その人の姿を見た者が無いんだ、よほどの重体で枕が上らないんだろう」
「なるほど……その看病でお雪ちゃんが出て来られないのだな」
「多分、そんなことだろうと思う」
「それは何人《なにびと》だろう、あの娘の身うちの者か、それとも……」
「さっぱり正体がわからないんだ、また、強《し》いて尋ねても悪かろうと遠慮もしているが、とにかく、身内の者には相違あるまい」
「近親の看病のためにふさいでいるならいいが……万一ほかの事情であの娘の性格が一変するようでは、かわいそうだ、あんな性格の娘は、どこまでもあのままで保護存養して行きたい」
「そうでなくてさえ、このごろは番人がヒヤヒヤしている、飛騨の高山の者だというあの油ぎった後家《ごけ》さんと、その男妾《おとこめかけ》の浅吉とやらが変死してから……留守番や、山の案内がこわがっている、この上、お雪ちゃんでも病みつこうものなら、鐙小屋《あぶみごや》の神主でも祓《はら》いきれまいよ」
 二人は、いい気持で、こんな噂《うわさ》をしているが、窓の上高く、三階の勾欄《てすり》のあたりを見上げた時、何かこの晴れ渡った白骨温泉場の空気の底に、抜け穴があって、張りきったものが、そこから無限の下へもれて行くような気持がしないでもない。
 かかと[#「かかと」に傍点]をこすり終った北原賢次も、何かちょっとそんな気分にさわったことがあると見え、
「時に、根も葉もあるではないが……あのお雪ちゃんが、妊娠しているという噂を聞かないかい」
「え……妊娠、あの娘が」
 小西新蔵が、ちょっと枕を立て直す……そこで二人の会話が、また五分間ばかり途絶《とだ》える。
 やがて、声高に、笑談まじりに、二人は何か話しはじめたが、ばったりと立消えになってしまうと、暫くあって、森閑たる浴室の外へ聞えるのは、小西新蔵がやや得意になって、
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聞くならく
雲南《うんなん》に瀘水《ろすい》あり
椒花《せうか》落つる時、瘴煙《しやうえん》起る
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