鉢の中へ納めた火の、かんかん熾《おこ》ったのを二度《ふたたび》、火箸の先でツマみ上げて、今度はいささかの情け容赦もなく、ゾロリとした羽織の袖をひっぱった上へ載せると、ゾロリとした羽織がジリジリと音を立て、むんむんと臭いと煙を立てて焦《こ》げはじめました。
「こいつは堪らない、これこそ真に驚きました」
 金公は、天下の一大事とばかりに、その火を払い落しにかかると、因果なことにはそれが膝の上へ落ちたものだから、みるみる膝の上が焦げ出して、
「熱《あつ》! 熱! 火水《ひみず》の苦しみ」
と叫びを立てました。しかし、お絹はよくよく腹に据《す》え兼ねたと見えて、それほどに苦しがる金公の羽織の袖を少しも放さず、第二の炭火を取って、今度は左の方の袖へのっけてしまいました。つまり火事が三方から起ったわけですから、金公、悲鳴を上げて苦しがり、
「おいたずらが過ぎます、いくら金公にしましても、これはあんまりでございます、もうこの羽織は着て行かれません、この羽織を両国へでも着て行ってごろうじませ、それこそ焼き殺されてしまいます、ああ、どちらへ廻っても絶体絶命でございます、おゆるし下さい、この通りでございます」
 金公は両手を合わせて、お絹を拝んだけれども、お絹はいっかな聞かず、その火を金助のふところへ投げ込んでしまったから、金助が飛び上ったところへ、あまりの騒がしさに、障子をあけて、
「いったい、何事が始まったのです」
と現われたのは七兵衛です。
 七兵衛が現われたために九死の境を逃れた金公は、血相を変えてこの席を飛び出して、それでも今度は間違いなく、自分の穿物《はきもの》をさらって、門の外へ走り出してしまいました。

 ややあって、神尾主膳は安達のところへ碁を打ちに行こうとして、ふと湯殿の側を通りかかると、そこで思いがけない人の話し声を聞きました。思いがけないといっても、全然、頭にない人の声ではなく、あり過ぎるほどある人の話し声を、意外なところで聞いたものですから、それでかえって足を留めないわけにはゆかなかったのです。
 というのは、その湯殿の中で、遠慮なく話し合っているその声は、お絹と、七兵衛の二人であったからです。お絹と、七兵衛と、話をする分にはなんでもないことで、いつでも無遠慮に話し合っていることだが、今朝はこれが湯殿の中だけに妙であります。
 そこで立聞きをするつもりではない
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