が、主膳が足を留めないわけにはゆきません。
 しかし、二人は湯殿の中で、内密話《ないしょばなし》をしているわけではなく、平常、座敷でする通りの熟しきった会話を取交しているに過ぎないから、ところが湯殿だとはいえ、邪推をする余地は少しもありません。
 だが、平常の話を、平常の通りにするならば、なにも湯殿を選ぶ必要はないではないか。この屋敷には有り過ぎるほど室が幾間もあるので、七兵衛の座敷として、ほとんど開《あ》かずの間《ま》のようになっているところもあるのです。なんだって、今朝に限って、湯殿の中で誰|憚《はばか》らず話をしているのでしょう。
「ねえ、七兵衛さん、あの子を、もう一度つれて来て下さい、お前が連れて来る分には、あの子だっていやとは言うまい」
 これはお絹の声。
「そうでございますねえ、来いといえば来るかも知れませんが、いつきますまいよ」
 これは七兵衛の返事。
「あれが、本当のわたしの子であってくれればねえ」
「それは、あなたが、あれを本当の子供として可愛がって下さらないからですよ」
「それは、どういうわけだろう、あの子のためには、わたしは本当に親身になって、仕込むだけの事は仕込み、出世のできるだけは出世するように丹精をしたつもりですけれど」
「けれども、それが、あなた様のはね、何か自分が利用をしよう、為めにしよう、という頭が先でお世話をなさるから、親切がそれほど、あれに響きません」
「なぜか、あの子は、わたしになつかない、わたしに楯《たて》をつくようなことは一度もないけれど、心からわたしになついてくれない」
「それは、そうかも知れません」
「今、あの子はどこにいます」
「田舎《いなか》の方へ行っております」
「田舎へ行って、何をしていますか」
「いろいろ、よく働いておりますよ、自分のためにも、人様のためにも……」
「縁づいたというわけでもないのですね」
「エエ、いいところから随分縁談もありましたようですけれど、あの子には、身上《しんしょう》を持つ気は少しもないようです、このごろは寺小屋をはじめて、子供たちを教えていますよ」
「まあ、あの子が、手習のお師匠さんになっているの?」
「手習のお師匠さんばかりじゃありません、若い衆、娘たちの相談相手から、夫婦喧嘩の仲裁まで、あの子が世話を焼いておりますよ、感心なものです」
「まあ、そんなでは、とてもこんなところへ帰っ
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