いきょう》かも知れません。
 このごろは始終|丸髷《まるまげ》です。丸髷を粋向《いきむ》きにこしらえてみたり、奥様風に結わせてみたり、それがまた見られる時は見られるように撫でつけてみたり、乱れた時は乱れたようにさわってみたりして、自然の容色のまだ衰えないことを、ひとり悦《えつ》に入《い》っているようです。
 容色の衰えないことは、全くその己惚《うぬぼれ》の通りといっていいでしょう。時によっては、以前よりはいっそう水々しく、つやっぽく、仇《あだ》っぽく見えることさえあるのですが、どうかすると、年は争えないものだという引け目を、自分ながら強く感じ出して、化粧刷毛《けしょうはけ》を投げ出して、といきをつくこともないではありません。
 切髪は、とうの昔に廃業して、ちかごろでは丸髷専門と言いつべく、丸髷が至極お気に入りの様子で、その結いぶりがヒドク気に入った時は、その場で声を立てて主膳を呼ぶことがあります。主膳を呼んで、さも誇らしげに、髷形をゆすって見せて、その賞讃を得ることを、子供らしく喜ぶことなどもあるのであります。
 だが、しかし、このごろは、あれにも、これにも、倦怠《けんたい》の色を隠すことができない。
 お化粧が済んだら、今日はお花を活《い》け換えようと思っていたが、あいにくまだ花屋が来ないものだから、その間の所在に、ちょっと三味線にさわってみたのです。
 それとても、花にはかなりの自信はあるが、三味線は、人に聞かせるほどの堪能《たんのう》のないことを自覚しているから、ホンの手すさびに、さわってみて、新内《しんない》を一くさり口ずさんではみたが、こんな時に、主膳に立聞きをされて、冷かされでもしてはばかばかしいという思い入れで、手っ取り早く切り上げてしまい、さて今日はどうしようか、どこへ行こうか、と火鉢の上へ手をかざしながら、退屈まぎれの方法を考えはじめました。
 三芝居もどんなものだか、佐《さ》の松《まつ》の若衆人形の落ちこぼれが、奥山《おくやま》あたりに出没しているとのことだが、それも気が進まない。活人形《いきにんぎょう》も見てしまった。百日芝居でもあるまいが、そうかといって、西洋鋸《せいようのこ》で板をひきわる見世物を見に行ったって始まらない。出歩くことは嫌じゃないが、結局、今日は、どこへも出てみようという気がしないで、でも、こうしているのもばかばかしいから、若
前へ 次へ
全187ページ中99ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング