まで腐り込んだ主膳の魂のどこかを、軽く突いたようなものです。
万一、徳川の屋台骨《やたいぼね》が崩れるとすれば、その責任はいわゆる旗本にあるのだ。われわれも御粗末ながら、その旗本の末席を汚し来った一人とすれば、その責めを分たねばならないのだ。責めを分たねばならないどころの話か、このおれのような恥知らずの、やくざ者が相ついで出でたればこそ、主家のタガがゆるんだというものではないか。おれたちこそ、実に徳川にとっては獅子身中《しししんちゅう》の虫だ。なんのおれたちが、しっかりしてさえいれば、つまり旗本八万騎なるものが、往昔の三河武士の気骨さえ失わないでいるならば、なんの薩摩が、なんの長州が、歯が立つものか――
おれのような、やくざが旗本から続出したればこそ、それでこうも徳川の屋台骨が傾いたのだ。
徳川の敵はおれたちじゃないか――なあに、天下は廻り持ちだから、三百年も一手に握っていれば、大抵にして他に譲った方がいいのだ。未来|永劫《えいごう》、日本の国の政治の権力が、徳川の手にあるべきはずもなく、あらしめねばならぬ名分もないのだ。栄えるのが何だ、衰えるのが何だ、おれたちは、つまり遊びたいだけ遊べる天下がほしいのだ――と、こんなような理窟をコジつけてみても、さて、外勢力がこの江戸の土を蹂躙《じゅうりん》するような日を予想してみると、腹が立たないわけにはゆかぬ。
国が亡ぶるということは、悲惨中の悲惨なことだ。なにも徳川が亡びたとて、日本の国が亡びるという意味にはならないが、それでも、大坂落城の時の殷鑑《いんかん》はどうだ。自分で飲みつぶし、使いつぶした身代は、また観念もするが、他から侵入され、征服されて、つぶされる運命は癪《しゃく》だ。癒《いや》し難い無念だ、残念だ。
ちぇッ、おれも、こうばかりはしていられないんじゃないか――神尾主膳が、いつに似気なくこんな心持になりかけた時、離れ座敷で糸の音がしました。珍しくお絹が、三味線いじりをはじめたものらしい。
二十
しかし、一方お絹の方では、主膳が身にこたえるほどに感じてはいず、これが年中行事じゃない、日課のおきまりとして、恭《うやうや》しく鏡台に向ってお化粧をはじめました。
主膳が入木道《にゅうぼくどう》を試みるのを、朝のおつとめの快事とするように、お絹がお化粧にかかる時が、この女の三昧境《さんま
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